無職や引きこもりの適性=真面目、不器用

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もう少し器用に生きられなかったものだろうか

それでいいんよ~とは思うけど、いつか書こうと思っていたので書いてみる。

身の回りで働きたくない人、働かない人は全て人間的にはわりと普通で優しい人すら多いように思う。

冷たい世間

しかし、そのような人間が愛を持って世間と接しても、それに見合った優しさが返ってくるとは限らず、むしろ平気で自分を正当化して、自らの利益を拡大しようとする人間も多い。

優しくない人間の方が得か

普段から穏やかで優しい人間は、常に優しさを期待されており、人々はあえて遠ざけようとしないばかりか、それを利用しようとする人さえいるだろう。

優しくない人間は、自分のことばかりで他人のことなど考えなくてもいいので楽で生きやすいのではないか、必要あらば人をだましてでもお金を得て、悪いことをしても知らぬ顔、上にたてば強い叱責や馬頭で下をコントロールすることができる。

やさしさは弱者なのか

では優しい人間は弱く、冷たい人間(優しくない人間)が強者なのだろうか、私の実感からいくと、だいたいそれであっているんじゃないかなと思う。

優しくはない人が人生に行き詰まり、自意識やプライドをおさえこんで引きこもりになったり、社会的な影響力がゼロになってしまうようなことは少ない気がする。

成功者はそういう意味で、優しくはない人間が多いかもしれない。トランプ大統領が優しいだろうか、おそらく優しくはない人間の部類に入ることだろう、しかし社会では大成功している。

ひとつの結論

引きこもりや社会的弱者の希望

もしかしたらこのご時世、他人を蹴落として働かずに朽ち果てていくという、そちらの生き方の方が優しい人なんじゃないのか。

優しいことが良いことなのか悪いことなのかは分からないけど、一見いいことに感じるステータスを、社会的弱者は備えている可能性が高いことは誇るべきことであると思うのである。

人生の最終地点

人生の最終地点は決まっている、それは誰にも等しく平等なものだ。事故や原爆で一瞬で亡くなろうとも、家族大勢に見守れながらの病床の死であろうとも、それはすべてそれでいいんだと思う、その時には優しくない人間も、優しい人間もないだろう。

最大の目標

私の最大の目標は感謝の心を持ってその日を迎えるということ、それは明日かもしれないし、10年後、50年後かもしれないけれど、どのような状況の死であっても、今まで自分に命を捧げてきた命にただ感謝して死ぬということだ

常に気を配らないといけないのは、私が人生に絶望しているという点であって、そのことを意識していないと自分を正当化して他人を攻撃してしまう。だから常に中立の立場でいるために私は自分の事を宇宙から眺めるのであって、そのことによって絶望でしか見えない思想が、中立的な存在としての価値を得ると思うのだ。

まとめ

結局言いたいことは、それでいいんだということに尽きるだろう。生きる人も、死ぬ人も、幸せな人も、ただ生きているちう人も、すべてはそれでいいんだと思う。

労働中の息抜きについて書こうと思っていたんだけど(キャバクラとかに行けばよかったんじゃないかとかそういう類)、また違うことを書いてしまった。

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