流れ流れる自分の運命と神との出会い~京都にて~

Pocket

この京都の洋館(銀月アパート)の結界の中で過ごしていると、社会から完全に隔離されているような気持になる。

もともと無職の自分が、また深くそう思ってしまうということは、この場所にはなにか特別な磁場が存在しているなんてことを、思わずにいはいられない。

いつも覚悟を決めて、また仕方なく逃げるように流れ流れてきた自分がまた、再び流れて大陸に行こうとしている。京都という地は鞍馬寺という自分のパワースポットがある場所であり、嫌でもそんなことを考えてしまう場所だ。

私の人生とは一体なんなのだろうか。この先、またどこへ流れつき、なにをするのだろうか。昼頃にようやく腹が減って結界の外に出て、労働者を眺めながらまた無職から異国へながれていく境遇を考えた。

私の人生も悪くはないかもしれない

自分の人生もまた、ある種の運を持っているといっても、いいのかもしれないなと思った。

頭が良くないと言っても、大学まで行かせてもらったことで本当のバカではない。そして教育によって色々な選択肢が見える視野を与えてもらった。それだけならなにも成すことはできないが、私は天より、それらの選択肢を試していける、稀なバイタリティーを授かっていることが分かったことで、なにが起きても自分ができる範囲で大きな変化を起こすことができるのを知った。

加えて、この年まで恐ろしく女性にモテなかったことで、ここまで自己理解が進むまでの間、無駄に重荷を背負わずに済んだ。これはモテなかった上に、真面目だったのだろうと思うし、これが最上ということではないものの、弱い自分の心を正当化し、これで良かったと思わせるには十分な要素であり、今は心から良かったと自分を慰めることができる。

実際になにがベストだったかは分からないことだが、家庭などに縛られたりするよりは、一人でいつ死んでもいいという執着が少ない自分でいれることで、自分のバイタリティーを最大まで生かすことができるのではと考えた。

バイタリティーについての考察

昨日は友人と話したり、ドキュメント動画を観たりする中で、自分に稀なバイタリティー(行動力、適応する力、生きていく力)があるとするれば、それは何処からきているのかということを考えてみた。

なにかを判断する時に無私になる~神のチカラ~

友人の銀月氏も相当無鉄砲であるが、その氏でもこの年になっていきなり中国に行って一年住むなど信じられないという、中国という国が好きで4回も観光している氏だが、

  • 食べ物がまずい(本場の中華は意外とマズい。餃子の本場である西安の一番有名な高級餃子店で、餃子のフルコースを食べても美味しくなかった)
  • 空気が汚い
  • 日本人もいないし、大連などと違って日本人向けのサービスがない僻地である
  • 観光と住むのは別だから

などの理由で無理だという。

しかし私の場合は、確かに現地に行って苦労するということは分かっているくせに、その検討段階では全く不安を感じていない、というより注意深く心を読み取っていくと、どうやらその段階で自分という自我が消失しているのだ。つまり自分がいないのに、悩みや惑い、不安が生まれるわけもなく、何も考えずにどこにでも飛び込んでいける、そんな能力を持っていることが分かった。

それはコントロールできないという点ではマイナスであり、悲しいことでもあるが、天変地異が起きた場合に生き残ることができる、自然選択(神)が残した数少ない行動のかけらが自分の中にあるということでもある。

今日の予定

今日は取り立てて予定はないのだが、中国版のラインを導入できたので、それらで内定中の大学や、浮上した湖南省の大学と連絡をとるつもりで入るが、よく使い方が分からずに苦戦はしそうだ。

それから、できればもう一記事書きたいとは思っている。

にほんブログ村 海外生活ブログへ

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする