祖父の満州記2~一歩兵の太平洋戦争の記録~

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↑祖父がもらった勲章の一つ、支那事変従軍記章

☟の記事の続きです、読んでいない方はこちらからどうぞ。

大日本帝国の一兵士の記録であるが、ブログでアップすることで、誰かのためにはなるのではと思い、祖父の人生を振り返るついでに引用しておく。

一歩兵による太平洋戦争の記録~満州国境守備隊~

~動乱の歴史『我が人生』歴史研究会より引用~

ここまで(前記事)

すぐに遺体収容のための決死隊が募られ、数少ない同郷出身の戦友の無残な戦士に、決死隊に志願するも相対峙するのみで、全くの交流もないソ連軍がいかなる態度に出るかは予想もできず、志願者も少なく、1人の遺体に四名の決死隊がやっと編成された。万一に備え決死隊は一人づつ出動、氷上の遺体にロープを結び収容に成功するも、冴えわたる月の下で見る戦友たちの変わり果てた姿に涙する。

身を切る極寒の中で、投弾筒手として、演習・訓練に明け暮れ、食事の暇もない夜間演習・特に冬季訓練の厳しさは忘れがたい。銃剣術も猛特訓の末、中隊二番の腕前になっていた。二年兵の時ノモンハン事件が勃発、直後に出撃準備を整えて待つも、まもなく停戦協定が結ばれ出撃は中止となる。

三年兵で未だ上等兵の時であったが、築上郡の戦友が戦死したため、中隊長より指名され「遺骨を持ち、内地帰還せよ」の命令。数年もの間、満州で過ごす幾多古参兵の多い中で特に指名していただいた中隊長に感謝し、月給が十円二十銭のころに、旅費としては百三十円をいただき、戦友の遺骨を胸に虎林を発つ。

途中、牡丹江・ハルピンと各地で一泊したが、ノモンハンで戦死した遺体が乗せられ奉天を経由し大連に着く頃には、列車は遺体で埋め尽くされていた。大連より、吉林丸という豪華客船に乗り門司港に上陸。担当官に遺骨を渡し、久しぶりの故郷の土を踏む。

突然の帰郷に歓喜する母上や弟妹達と積る話に夜の更けるのを忘れる。三日後、名残惜しむ家族を後に満州の原隊へと復帰。間もなく打ち続く国境の紛争に備え、国境守備隊に機関銃中隊と歩兵砲小隊が新設され、歩兵部隊に七名の余剰人員ができた。七名中の一人として15年8月15日、内地帰還し除隊となる。(満州に駐留中の部隊は、太平洋戦争が勃発するや南方へと転戦、その将兵のほとんどが玉砕している)

つづき

祖父の幸運が見てとれる

月給が十円二十銭のころに、旅費としては百三十円をいただき、戦友の遺骨を胸に虎林を発つ

↑のことがなければ、祖父は日本に帰れずに太平洋戦争を迎え、南方に送られて皆と同じように玉砕している可能性が高い。そう考えると、祖父と同郷の人が戦死してお骨を持って帰るという幸運がなければ、今の私はないだろう。

満州から門司港までのった豪華船が、吉林丸という名前なのも、なにか縁を感じる今日である。

しかし、月給が10.2円とは・・・・いったいどういう時代なのだ。100年もせずとも物価というのは巨大になっていくんですね。祖父が実際に取材で語ったことだけに、その時の流れを感じられるというのは、貴重なことである。

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