インド旅行記8

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-ブッダガヤー-

5月27日

街ではブッダの誕生日を迎えて、朝からお祭りモードである。昨日、ブライアンに聞かなかったらなんのことか分からなかったところだ、様々な衣装をまとった団体が、旗を持って行進していく、目指すはマハボディー寺院だろう。なぜ今インドに来なければならなかったのか、その答えがようやく分かった気がした、私は釈迦に呼ばれたのかもしれない。

体調は相変わらず良くない、下痢で放屁しただけでパンツを二度もぬらす、ズボンまでいかなかったのが奇跡としか思えなかった。気分の悪さと、ドミトリーの非衛生さに耐えられず、シングルルームに移る。なんとか6月1日か、2日の便で日本へ発ちたいと思う。

28日

もう何日間、咳で苦しんだだろう、胸をつくかつてない咳に私はもだえ苦しんだ。現地のや薬局で薬を入手し、飲み続けているのだが治らない、もう長いこと観光も人との会話も、絵にも距離をおいてしまっている。ブッダガヤーに来て2日目からまったく寝てばかりである。

29日

朝起きてみてようやく回復を実感できる。絵も描けそうなので、マハボーディー寺院を描きに行く、おそらくこの旅最後の作品になるであろう。私が途中で旅を終えてしまったことを、自分自身に納得させるような絵が描きたかったが、それはこの体調の中、困難なことのように思われた。

描きはじめるとすぐに子供詐欺師を呼び寄せてしまう、しかし、私が行かないというとやはり子供だ、待っているといったものの30分も待ちきれずに何処かへ行ってしまった。この街には日本語堪能な人が多く、おそらくシーズン中はツアーなどが多いのだろう。二時間後、なんとか完成したが、右手の震えがあって、少し淡く弱々しい感じの絵になったが、今の実力は出せているし、一生懸命集中できたことは絵から伝わってくる。右手の震えは耳の不調のせいだろうか、ずっと右耳にフィルターがかかっているような、もう何日も耳ぬきができない、はやく耳鼻科を受診したいものだ、これがなければおそらくバラナシ行きを選択したんだろうと思う。

とりあえず、絵の仕上がりに満足した私は、ホテルに戻って水シャワーをあび、持ってきていた「深夜特急1」を少しだけ読んでから街へ出る。常連となっているフジヤレストランへ行って、サンドイッチを食べた。帰り際子供から

「ヘイ、トモダチ」

と声がかかる、何事かと思うと

「ボール!ボール」

と言っているようだ、私から少し離れた広場にボールが転がっていた。なるほど日本語で叫べば気付いて、取ってくれると思ったのだろう、私は笑いながらボールを投げると、少年の頭を大きく超えていった。二人とも笑顔になったが、その後肩を壊して冷えたペットボトルで冷やすのだった。昨日まで、顔色悪いとか、やせたとか、まるで病人扱いだった私は、いよいよ復調しつつあるようだ。その分、街の人たちが私に心を開いてくれているのだろう、やはり体調次第だなと改めて感じた。

まだ観光する気力も戻らないので、私はホテルでゴロゴロしたりして、夕食後にはウロウロ起きてレストランを目指す。まるで日本の無職状態だなと思って、自分でも可笑しかった。

新しく見つけたレストランには日本語の上手い23歳の若者がいた、話してみると関西の鉄道や地理など、私より知識を持っていて驚かされた。

しかも彼は、東北、青森から九州の鹿児島まで、私が行ったことがない土地も回っているらしい、それもそのはずで、彼の妻は日本人らしいのだ。

年は26歳で京大卒、このレストランで出会ったという。たしかに日本語堪能で、なかなか深い話が自然とできる彼に、心を開くのも分かる気がした、思い切りの良い日本人もいるものだ。彼も日本に住みたかったが、やはり馴染めないようで、今は妻と娘二人を日本に残し、行ったり来たりしているらしい。

彼にジャニーズのことなどを教えてもらったり、私がヒンドゥー教についての知識を話すと、君のように説明できた人は初めてだと感心された。私の方も、異教とはいえ、よりよく生きるための宗教を実践しているインドという国に感心した。厳しく、貧しく、哲学的な人々の中から、無数の教えが発生していったのだ。

私は一通り話をしながらチョーメンを食べ、ホテルに戻った、チョーメンはコルカタの屋台で食べたものの方が、はるかに美味しかった。

短いような長い滞在を終え、明日はデリーに向けて出発である。

つづき

※画像はブッダが骨と皮になるまで瞑想し、スジャータのミルク粥で命を救われた前正覚山と悟りを開いた場所にある菩提樹。

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