津久井やまゆり園~障がい者殺人事件を考える~

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津久井やまゆり園の事件について本気で考えてみた

考察の意義

  • 関係のない第3者が情報や考えを出すことが、一つの糸口になりはしないかと思ったから
  • 養護学校で常勤講師をしたことがあり、障害についてだいたい理解している。
  • 単純にネタがないから
  • 事件から一年という区切り

私の思想の大前提

物事に善悪はない

私の思想の大前提には悲しみと諦め、それを包括するように”物事には善悪はなく、善悪は時代や国や社会が決めていることにすぎない”という考えである、ということをまず第一前提として書いておきたい。

したがって私は、社会の立場にも、被害者の立場にも、加害者の立場にも立たない、ただ粛々と自分の意見を述べてみたいと思う。

それぞれの印象と考え

施設について

抵抗できない人たちを守るには、最低でも3人につき1人の職員がいないと守ることなんて不可能だと思う、私が養護学校に勤めていたときは、それぐらいの割合で生徒を見れていたので、たった1人で19人も殺せるはずがない。そういう意味では起こるべくして起こった事件だし、今後も起きる可能性がある。今回、たまたま就活でいろんな求人を見る中で、津久井やまゆり園が県立の施設であることを知ったが、県立の施設だったということでも、社会の責任は大きいと思う。

加害者について

悲しいけれど、どこの世界にも、どんな世界にも殺人鬼などはいる、これはいない方がおかしいのであって、いることが自然なことだ。

こういう事件が起きると必ずなぜ犯人がなどと言い始めるが、真理は一つしかない。本当の原因は複雑であり、分かりようがない。

被害者について

私は、物事はすべて自分のせいで起きたとおもうことにしている(詳しくはこちらの記事)ので、どんなに理不尽なことでもまず自分を顧みるようにしている。

被害を受けた全ての関係者は、加害者についてなにかを探っても仕方がないだろう、おそらく自分を見つめることが心を正常に近づけるのではないか、以下の文でも考えていきたい。

今、私が思うこと

生命を悲しむ

もし自分がある程度発言の自由が許されているキャスターだったら、この事件をどのように報道するだろうか、感想を述べるだろうか。

おそらく、元をたどっていくと、なんで人間がいるのか、生命がいるのかということに回帰していくと思う。

なんで障碍者がいるのか

実はみなが障碍者である

じゃあなんで人間はいるのか

そのことについての、根源的な悲しみを視聴者と分け合いたい、そして寄り添いたい。加害者にも被害者にも、社会にも寄り添いたい。

社会について

私が幼いころ、故郷(ちょうど九州北部豪雨の地域辺り)にはまだかすかな闇が残っており、その闇は色々な形となって私をまごつかせた。

  • 祖父が鶏小屋に入って鶏を食べていた犬を撲殺(私と兄は泣きながら止めようとした)
  • 鶏を絞め殺す父と首が亡くなっても走る鶏
  • 整備されていない、轍がどこまでも続く道
  • 自然に堂々と闊歩する野良犬や野生動物
  • あちこちで立ち上る炎と煙
  • ひとくくりにはできない生命の多様性

それらは闇のようでいて光でもあったが、社会はまるで影を恐れるように、少しづつ不可解なものを無くしていった。それはまるで文明が、極端に闇を、陰を、分からないものを恐れているようであった。

分からないことを恐れない

障がい者や施設を、どこかに陰として、闇として社会から隠そうとしてはいないだろうか?また関係者も、どこかでそれを追随して考えることを辞めてはいないだろうか。分からないものを恐れる必要はない、分からないものを分からないままにしておいてもいいのだ、しかし闇を見たくないと思って隠そうとしたとき、その闇は何らかの形で社会に溢れ出るだろう。

しかし、私はもうこの点に関しては諦めている面もある、社会はこれからも深淵な闇であればあるほど、その存在をなきものにしていくだろう。その証拠に、犯人がターゲットにした動けない重度の障碍者の実像が、ほとんどメディアには出てこないのだ。

人間は万能ではない

現代人は、自らの運命に対する畏怖や、自然に対する畏敬や感謝を忘れてはいないだろうか。事件と関係ないと言われるかもしれないが、あえて書きたい思う。

なにがしかの被害にあったとしても、人はいつも誰かに助けられて、今まで生かされてきた感謝を忘れてはならないと思う。現代社会の日本、どこかで自分と我が子のことしか考えずに、感謝や畏怖が薄れていると思うのだ。

最後の場面に一緒にいてくれた人に対して、感謝することもなく訴えたりするなんていうことは少し理解ができない。どんな状況でも、自然災害とかであれば、まず最後の時まで引率していただいてありがとうございました、という感謝の気持ちであるべきだ。

ベトナム少女殺人事件

少し前にベトナム人の少女が、見守り隊のふりをした男に殺害されましたよね。私は、あの父親がテレビに出てくるたびに感動を覚えました。加害者を悪く言わず、ただ悲しみと、日本への感謝を、不慣れな日本語で伝えようとしていたのです。あの、それでも遠慮と礼節を保とうとする姿に、私は日本人が忘れてしまったなにかを見た気がした。

以上、社会的に無能な無職が考えてみた。

事件の悲しみ、無職の悲しみ、命の悲しみに合掌(__)

悲しいのう、悲しいのう・・・・うんしょ、うんしょ・・・

無職の言葉

あなたが幸せでありますように

あなたが好きな人々が幸せでありますように

あなた憎む人々が幸せでありますように

あなた憎む人々が幸せでありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

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