2020年8月、旧満州を巡る旅は、私の中国東北地方在住での集大成となった。
大連駅から四平、満州を巡る旅01(2019年8月)
四平と言う日本で全く知られていない(東北地方の中国人に以外にもほとんど知られてはいない)このマニアックな土地で、泣いて笑ったこの二年間。
いったいなにから振り返ればいいのか、想像もできないほどである。
その二年間の生活の中で、1年半が経過していた中で強行したこの旅は、まさに中国生活の苦労や醍醐味を味わいながらも、なお現状をなにか変えたいと先祖を訪ねようとした、そのように解釈できなくもないなというほど、まぁ突然に思い立った旅ではあったし、自分の中でも整理がつかないままである。
しかしいい旅となった。
終わりよければ全てよしである。
もう中国から抜け出したいと思ったこともないではなかったが、この素晴らしい満州の旅は私を初心に立ち戻らせてくれた。
もう二年半前に吉林省の地を踏んだような新鮮さは味わえないかもしれない。
でも、それでも自分が中国と関わっていく中で、また違った素晴らしい体験がある、思い返せば旅はそんなことを自分に教えてくれたのかもしれない。
挑戦ないところに失敗はなく、また必死になったところに感動があると思う。
2年前に吉林省長春の空港に下りた時、ロシア人の先生と迎えの大学の先生と合流しながら大学を目指した。
大学に到着した時には25時を回っていたと記憶しているが、寮の前から門に入る間に寒さで死ぬかと思ったのを覚えている(すでに3月であったのに)。
すぐにバックレなければいけないと思った。
しかし、結果的にそれは素晴らしい旅になった。
そして、集大成となった満州旅行も素晴らしいものとなった。
これからも、
「人間至る所、青山あり(この広い世界、自分の骨を埋める場所ぐらいは、どこにでもある)」
の精神で、また中国へ旅立つ日を、今は静かに待っている。
父が『同行二人 満州戦争遺構の旅』という冊子を作ってくれた。
それに刺激を受けて、やはりこの旅をまとめておかなければという思いを強くし、もう一度ブログの管理画面を開ける。
令和元年8月の旅である。もう記憶が薄らいでいるところもあるが、この非常に意義のある旅を少しずつでも整理していきたいと思った。
同行二人
満州戦争遺構の旅
令和1年8月5日~8月12日
『動乱の歴史・わが人生』というあまり立派ではない大きな本が我が家にある。
さまざまな人達の戦争体験を中心とした人生史をまとめた本である。その中に、祖父・幸義の投稿したページがある。祖父が他界して20年。縁あって吉林省で働いている間に、祖父の青年期に陸軍の一員として派遣された満州の地を訪ねてみることにする。〈父〉
父の投稿記事の中に出てくる、大連、新京、奉天、虎林、牡丹江、哈爾浜(ハルピン)。
祖父、幸義が日本兵の兵士として従軍していた満州の地。80年のときを経て孫の自分が訪れることにした、父は希望するも同行することはできなかったが、スカイプを通じてまるで同行しているかのごとく、意思の疎通を計る。〈父〉
第一日目:大連駅
旅の始まりは大連。
天気は良く。気候も暑くはありません。
祖父の従軍も大連上陸から始まりました。
大連駅の正面から
一度自宅(大学の寮)に帰り、旅の支度をする。
夜行で出発に備える。
日本の自宅を朝出発して、その日のうちに飛行機、夜行列車と乗り継ぎ、明日は牡丹江で目覚める予定。
四平駅前の風景
四平の気温は30度。21時10分。
「乗る人がいないから、気を張ってないと今回の旅はどうなるかわからんね」
駅の電光掲示板
満州戦争遺構の情報は乏しく、また黒竜江省や、吉林省の旅情報も乏しく、不安と期待を胸に8月5日夜行列車で四平を発つ。
駅のホームに電車が入る(電子板に牡丹江の文字)
明日は朝8時からすぐに鶏西への電車、虎林につくのは、明後日の午後の予定。
21:10 駅は人が少ないです。列車が到着しました。いよいよ旅の始まりです。
中国人は皆足が長いですね。車両は快適ですが、すごい揺れが続きました。
今までは順調に来ています。
中国東北(吉林省)生活の集大成
なにから書けばいいモノやら、、怒涛の日々だった。
塵一つなく、でも台風が過ぎ去ったにしてはどこか現実感がないような、なにかが思考を妨げる様な、様々な人生を一気に駆け抜けたような、なにかが混じり合って、幾人か、いや無数の魂と交錯したような、そんな深い旅であった。
メモはほとどとっていないが、簡単なスケジュールと写真、切符などを見ながら毎日コツコツと書いていきたい。書きたい、そう思わせるような歴史的な旅となった。
彼女に出会った。それだけではない、彼女が現実になろうとなるまいと私は四平に帰る日が近づくにつれて、詳細な旅行記を残そうという思いを強くしていった。インドの一人旅以来ではなかろうか?あるいは一人旅がそうさせるのか、そういうなにかが起こるタイミングだから一人旅にでるのか?それは分からない。しかし、一人旅には、やはり壮大なドラマと出会いが自分にはつきもののようで、それはずっとなにかしらつながっていくようなことが、幸いにも多いのだ。。。
ちょうど中国の虎林に呼ばれたのと同じように、10年前にはインドに呼ばれ、その時は、偶然に仏陀の誕生日をブッダガヤーで迎え、東西南北インド中から僧侶が街を目指して行進する大集団を目にした!
タクドラを辞めた時に、訪れたハノイでは早くも行きの搭乗機の中で日本から帰国する技能実習生と出会い、同じホテルに泊まることになった。彼女達との関係は今でもlineで続いている。
予期しないところからなにかが起こる。それが旅先と深くつながることができる一人旅の魅力であろう。もっとも、移動待ちでも荷物を全部もって行かなければいけない、部屋や貸し切りタクシーが割高になるなど、短所をあげればきりがないのだが・・・・。
8月5日(月)晴れ 大連から四平、四平~牡丹江
東北の晩夏、大連ではまだちょっと暑さが残る、しかし、昨日までいた日本の九州の真夏の暑さは全くない。
二度目の宿泊となった百時快棲酒店(大連港湾広場店)からの出発であった。朝起床して、パンを食べて、チェックアウトをする。
前回のチェックアウトの時に、なぜかデポジットを返してくれなかったのが気にかかっていた、たかが数元なので忘れていたのだと思うのだが、そんなことも言い出せない性分である。今回は、数元のデポジットがちゃんと戻ってきたが、私はトボトボと地下鉄へ向かいながらも、この先の旅への足取りは非常に重かった。なんで、こんな面白くもワクワクもしない、中国東北部の、しかも花形であるハルビンや瀋陽、大連観光ならまだ分かるし、行きたいとも思う。特に瀋陽などは観光資源が豊富だ。ハルビンの街並みも美しい。
それが、なんでよりによって虎林とかいうわけのわからない極東の場所なのだろうか?なんでハルビンじゃないのだろうか?
旅の途上、なんど思ったことか。ああ、しかし悲しいかな旅の運命は、吉林省から近く去るであろうタイミングや、諸々の条件も整って、いよいよ行くしかみちはないのかなという感じになっていった。特に色々な人に話してしまって、もう四平から牡丹江行きの寝台を買ってしまっている。
まぁいいや、なんとかなるさ。最後はそう思い直して、足取り重く「湾岸広場」の駅へと階段を下りた。
今回の出発場所は大連駅、中国の新幹線の駅としては、大連北や北京南、例えば四平なら四平東など、新駅から乗ることがほとんどなのだが、この日は珍しく大連駅からのスタートだった。地下鉄を降りてから二人ほどに道をきき、なんとなく歩いていくと、スーツケースを転がす人々が現れ、私もその波にのまれた。
大連~四平東、この行程は少し慣れてきたとも言えなくもない路線で、なんとなく気持ちの余裕もあったのか、あまり記憶が定かではない。ただ、気乗りがしない旅を本当に行くのだろうか?果たしてなんの意味があるのか?そんなことばかりをうじうじと考えていた気もする。
悪いことに、親戚一同とこの話になった時に、
「ぜひ線香をもって行って、参ってき」
そんな興奮した声が聞かれ、それに方々から喝さいが起きたので、これを第一の目的かと、そんな風に考えていたのだが、その線香すらも忘れている始末だった。それでも、代わりになるものはなにかないかと探したところ、自分には水彩画しかないのではないかと思って、それでまぁ絵の道具を四平のアパートに戻った時に、しっかりと道具に入れた。
四平はずいぶん涼しく感じた。やはり福岡とは違う。生徒の姿はほとんどないが、たまに大学生のカップルが寄り添って歩いていた。なるほど、実家に帰らずに残るとしたら、よほど課外授業でもあるか、同じ大学でカップル同士かのどちらかぐらいであろうか。アパートに戻った私は、スーツケースからバックパックにそっくり荷物を移し替え、帽子をかぶり、すっかりバックパッカーの装備を整えると、普段はあまり使わない四平駅へ、鈍行寝台列車に乗るために向かった。
「やっぱり新幹線じゃなくて、普通の駅かも知れない」
私がそうつぶやくと、運転手の表情はあきらかに曇った。それは、僻地の四平東駅から、中心の四平駅への変更を意味したからだ。しかし、切符を運転手に見せると、やはりあきらかにこれは四平発のようだ。
それもそうだ、東駅は新幹線駅の専用車線のはずだからである。念のために、午後四平東に着いたときにネット決算していた切符を、切符売り場で現物化していた用心深さが、この度のスタートを救ったかもしれない。もし、四平東駅にいっていれば、途中で気づいてまたタクシーに乗っても、この度のスタートは相当躓いた結果となる。
なんでも初めが肝心、あれはそう、まだ私が24歳の時。
職業訓練でsさん(シラコさんという変わった名だった)が、語った内容とだぶる。なんで職業訓練でそんな内容を授業中に立って話していたのかは忘れたが、確かに彼は、
「理由がどうあれ、偶然でも、スタートが成功すれば、そのまま上手くいくことが多い、だから、そこに集中しています」
このような内容のことを語った。彼は確か30歳に近い年齢で、営業職あがりでずいぶん苦労したそうだ。頭はすでに剥げ散らかしそうな様相を呈していたが、今はどうしているだろうか。まだ京都にいるのだろうか。
この旅のスタートで、寸前のところで失敗を回避し、なんとか問題なくスタートできたことを想う時、このような物語を思い出さないわけにはいかない。
かくして私は四平駅に着いた。
大連駅から四平、満州を巡る旅01(2019年8月)