先日の、津久井やまゆり園の記事から派生したことについて考えたい。
資本主義と人間
資本主義においてはすべてのものが価値がお金を元にして価値を算出される。それが資本(紙幣、株、不動など)を中心に据えた資本主義であって、おそらく人間をはじめ、すべての生命にも値段がつくのではないだろうか。
人間の場合
その人物が、今後どれだけの資本を生み出す可能性があるのかを見ることでおおよその値段がつくだろう。
- 年齢
- 性別
- 技術や資格、能力
などによって、様々なところでレーティング(値踏み)がなされているのが現実ではないだろうか。
私は建前が嫌いだ。
私は、本音で生きる不器用な人間なので建前が嫌いだ。
思い切って教育でもそもそも人間はみんな違っていて、その能力や人生は不平等だということを公にした方がいいのではないだろうか。
誰一人同じ人間がいないということは、全ての人間で能力が違うということは当たり前ではないだろうか。
あえて闇を認める社会、インド
あえて闇を認める社会はどのようになっているのだろうか。私が2度旅行したインドは、おそらく世界で最も差別の激しいい社会だろう。
カースト制度によって、生まれながらに不浄の運命を背負っており、触れることさえ嫌がられる身分もある。
外見を極端に差別する
インドで輪廻から解脱できない人間として代表的なものに、
- 五体満足ではない人間
- 皮膚病の人間
という分類がある。
したがってこれらの人々は、ガンジスでも死体が焼かれずに重しをつけてそのまま沈められるそうだ。
分かりやすい外見からも差別する対象をつくり、ピラミッド構成で社会を構築しているのではないだろうか。
カーストと日本
蔵前仁一氏の著書によると、日本にはカーストがないと言うと、インド人が
「日本は素晴らしい、では日本では差別がないんですね?」
と言われるらしい。そこで素直には肯定できないというようなことが書かれている。
差別国ほど弱者を助けている矛盾
私は、中国にも4回旅行して色々な都市をまわったが、中国も貧しくてまだ障がい者を助ける制度がないのだろう、道端で物乞いをしていいる姿も見られるし、インドではそれが日常だ。
けれども、これらの国では、差別が公になっている分、たとえば日本のホームレスの様に、社会にまるで存在していないかのような扱いは受けていないように感じる、特にインドではそうだ。
実は日本も、インドと変わらないのではないだろうか。
差を認める
インドには、日本より多くの問題があるのかもしれないが、強者が弱者を素直に助けている場面というのは目にする機会が多い。また、生まれたときから運命は決まってしまうので、自己責任という日本では大きな支持を得ている考え方もあまりないと思う。
隠すのが変
日本でも、誰もが命は平等ではない、人間すら平等ではないと思っているのではないだろうか。そのことに誰も触れない社会、それが良い社会を造るのだろうか。私にはどうしてもそれが滑稽に思えるし、どこかに無理が生じるのではないだろうか。