生涯の目標はすでに決まっている
それは、死ぬときに死を受け入れるということです。
どんな人間も最後はゼロ
どんなに地位や名誉、成功を積み重ねても最後は、死ぬ時はゼロになります。後世に残るような偉人でも、死んでしまえば関係ありません。
人生の最後は、若かろうが、年寄りだろうが、一瞬だろうが、苦しもうが、最後は死と向き合わねばならない。これはボケていようが、どれだけの判断基準があるないにかかわらずに、すべての生命が、自分の感受能力を最大限に使って感じるものだと思います。
一切皆苦(生命維持に関わるものすべてが苦である)
人生の最後には痛みや恐怖と闘わないといけない、そのことが宿命づけられている一点からでも、釈迦が説いたように人生は苦しみであるということが、証明されています。
どんなに、それを否定しても最後にバラ色の楽が待っているという命はないのです、死ぬことが楽しくて待ちきれないという命は存在しないでしょう。
それでも馬鹿なりに立ち向かう
私はそのことを否定して、そこから逃げるつもりもありません。
釈迦が説かれたように、私はわたしの弱さをかかえながら、それでもそこから逃げずに正しいところを目指そうと思う。勉強して、あらゆる知識を吸収して、知恵をつけていく、そして行動を変えていくことで立ち向かいます。
解決策は一つしかない
今までの経験から、死の苦しみを克服するには瞑想しかないんじゃないのかと考えています。それも、かなり本気で取り組まないといけない、おそらく10年以上、それでもできないかもしれない、でも取り組むべきだろうと思っています。
瞑想の達人の世界
- 呼吸が一分間に一回
- 痛みの感覚がほぼなくなる、(舌に針を通しても無痛等)
- 出血すらしない
- 睡眠時間は2,3時間程度しかいらない
全くもう魔法の領域です、いかがわしいことこの上ありません。
しかし、もともとの仏教や瞑想は宗教ではありません。私は、一週間のヴィパッサナー瞑想の就業に参加したんですが、正しい指導を受けると、瞑想がいかがわしい要素が少ないものであると分かります。
平静
平静とは、バランスの取れた心です。
平静とは、渇望や嫌悪のない心です。
平静とは、不快な感覚が終わることを望まず、そして快適な感覚が続くことを望まないことです。
(※瞑想会の重要な教え)
瞑想の到達点とは、人間が生命維持のために意識的かつ無意識に分けている、
- 自分の命にとって都合の良いこと
- 自分の命にとって都合の悪いこと
- その、どちらでもないもの
という区別をなくすことと言えると思います。
それが見えるようになると、自我を超えた本当の世界、ゆがみのない世界が見えるとともに、痛みや恐怖すらも、あえて遠ざける必要がないものとなります。
そして、苦痛=生命維持が働いている
ということを明確に観察することで、自我を超えていく行為でもあります。
私(無職)が常に留意すべき点
そもそも私が人生に失敗したという点
普通になりたかった
私は、普通に中高と卒業し、大学まで行かせてもらいました。
まぁ美大という変な大学だったために、私が変な世界に行くということは、なかば自然な選択だったように思われますが、それでも普通に就職しましたし、このまま普通に働いて結婚して、ごく普通の人生を歩んでいくのだと思っていました。
現状が悪いとはいいいませんが、この無職で生きる希望すらなくしているというのはある意味では想定外というか、これは親族が子や孫に期待する本来の姿ではないと思います。
だから、そもそもの私の人生はどうあがいても失敗したという現実を、まずは私自身が理解しておかないといけない。
色々なものを諦め、逃げたうえで、この思考があって、この記事もあるということです。
私が嫌うこと
私は
- 自分をごまかすこと
- 物事を正義と悪に分けること
- 考えるのを放棄すること
が嫌いです。
かといって嫌うことが目の前に現れても、それは受け入れ、否定するようなことはしません。なので、むしろ自分自身が嫌いにならないようなことを意識しているのかもしれません。
従って常に、私は自分自身の弱さを把握して、それを俯瞰的にとらえる必要があります。
変なことを書いてしまった
今日はこんなことを書くつもりじゃなったんですが・・・
このテーマについてはまた書きたいと思います、それでは👋