インド旅行記~あとがき~

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2010年、インド旅行記

あとがき

2010年の、単身インド旅行記のブログへの書きおこしがすべて終わった。

これは、必死の覚悟で初めて海外一人旅をした私が、その生きざまの記録として残したものだ。

リアルタイムでの執筆は一人旅ならではのものだが、それでも完全に旅行中に書くのは珍しく、珍しい旅行者だったと思う。

旅行中に描くのはせいぜいメモや計画程度のもので、絵や文章を真剣に書いている姿を見ることは意外と少ない。

あの有名な沢木耕太郎氏の『深夜特急』シリーズでさえも、あとがきによると、少なくとも数年後に書かれたもので、メモをもとにした記憶が主となっているらしい。

この旅行記は、基本全てリアルタイムで書かれたもので、日本に帰国したその時、すでに9割の執筆を終えていた。およそ2万文字、原稿用紙50枚弱ぐらいだろうか、ちょっとした短編ぐらいのボリュームにはなったようだ。

それだけに、拙いながらもリアルな2010年のインドを少しでも感じていただけたなら、幸いである。

出会ったことのないどなたかが一人でもこの旅行記を読んでいただけたなら、筆者としてはたいへん嬉しいし、おそらく一人ぐらいのその読者に心よりお礼をいいたい。

 

当時の私の背景

2010年当時、インドに向かった私はまだ26歳だった。

現在33歳の自分からみると大変若く感じるが、この時すでにいろんなことにうちのめされ、心療内科を転々としていた私としては、辛く、明日の見えない日々を過ごしていた。今も状況は変わっていないが・・・

 

決死の思い

決死の思いから、尊敬する仏陀を輩出した信仰の国、インドを旅してみたい。

おそらくそんな考えで、インド一人旅を計画し、わざわざ帰国後の生活費をひと月分、滋賀県、南草津のパナソニックで稼いでから、インドの地へと旅立ったのだ。

ニート期間は現在より長い、約10カ月、その間、年末年始のヤマト助手と失業給付だけで生活をつないでいた。

  • 働きたいけど、自信がない
  • 死にたい、消えたい
  • 社会不安障害

など、おそらく今よりは熟成度は低いものの、同じような不安をかかえており、死んでしまいたいという思いはかなり強かった。

あちこち出会った日本人の旅人には、

「ところで僕は死にたいんですが、~さんはどうですか」

みたいなことをいきなり聞いて、かなりの変人と思われていただろうし、実際そんな噂も耳にした。

しかし、そんな当時の私の思想すらもインドはやすやすと内包した。

それだけ、インドでは

  • 生きる苦しみを問うこと
  • 生きていく意味を考える
  • 生死に善悪などはない

ことは日常の中に溶け込まれ、言葉さえ交わさなくても分かり合える気がした。

生きることに苦しんでいる群衆の中の、自分という存在を認識するのは、日本ではなかったことのように感じた。日本にある、きらめきや華やかさはインドにはなく、恐れや不安、喧騒といった負の面が、街のあちこちににじんでいた。

隠せない貧困や死、不可解なものが、そこらじゅうに横たわり、金がすべてで、金を持っているものがえらいんだ、そんなメッセージが街を包んでいた。

しかし、金を持っていても人間はいつか死ぬ存在だ、それを忘れないように考えよ、そういわれている気もした。それだけに時折、五感を通して感じられる生の感覚は、たとえようもなく美しく、またたく旋律となって私の胸をうっていった。

 

人生で最も苦労した日

私が人生で最も苦労した日を1日上げよといわれれば、間違いなくインド旅行記2にある、インド初日で、空港からホテルパラゴンに移動した日と答える。人生においては人並みに苦労もあったような私であると思うのだが、やはりこの日を上げぬわけにはいかないのだ。

ベスト10を挙げよといわれても、旅行の日が入るのはこの一日だけだと思う。しかし、初めての一人旅がインドで、観光地でない生の街並みを何時間も、10キロ以上も歩いた経験は、やはり1位にあげなければならないだろう。

特にメトロ、ダムダム駅の中でみたうごめく群衆、土日は地下鉄でさえも午前は運休というシステム、などには衝撃を受けた。駅の中には腰布一つ身につけてもいないような家族が、真っ暗な中で、寝ているのか死んでいるのかわからないが、何人も横たわっていた。

そのビジョンを思い出すたびに、私は最近固まりつつある一つの思想、死は解放である、ということを思わずにはいられない。

40度に近い気温、明け方の4時になっても27度以上ある眠れないほどの熱さ、ただただ生きることが、存在することが辛かった。

 

記録をすることの大切さ

過去の自分にもしアドバイスができるなら、自分は真っ先に、文章で記録をとりなさいということを進める。

それは簡単な日記などではなくて、めんどくさい、人前に出してもいいような量と質を担保したものを、残していきなさい

と答えると思う。要約すると、ブログをつけなさいでいいのかもしれない。

それと同時に、この旅行記を残した過去の自分に感謝したい。なんの得にもならないようなこの文章を残していたお陰で、言葉では表現できない喜びをたくさんもらうことができた。

そして、重要なことはその価値が、年々倍増していくようなのだ。この旅行記にしても、丁寧に手書きで文庫におこしたものを捨てようとしたことさえあったぐらいだが、今では自分の宝物にまでなっている。

 

新たな旅立ちの時

年内は無理かもしれない、けれど2018年には、旅人の部分を前面にだしていければと考えている。

そのためには、ブログの充実を計画通り2000記事以上に積み上げ、サイトの強化、増殖を適切に行っていく。

私はブロガーになる適正はないのかもしれない。

ブログを通して、人とコミュニケーションをとることも、今後あまりできそうにないし、一方的な発信だけにとどまってしまいそうだ。私の感性にはそれがあっていると思うし、それを受け入れて、自分なりの活動を展開したい。

自分の活動が誰かの役に立つとき、自分の道も開けると思うので、このブログを通して、一年かけて考え、実践していきたい。

 

インド旅行記 1

 

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期間工寮をばっくれる2~ホンダ期間工からホームレス~

浜松駅周辺

浜松駅周辺のホームレス生活ではいろいろなことを思い出した。

一年間である、あ~鰻も食べたな~とか、あそこもいったな~とか私の人生では、人に恵まれた時期であったらしい、意外にも、思い出があった。

いろんな出会いをまた無駄にして、リセットして今の自分があるんだと思う、それは現代にまで続いている。そして、とうとう私は自分自身を失いつつある。

ダンダンダンダン!全部お前が悪いアル!ワーッツ!

変な中国人が頭の中で叫んでいる.

私は変な人がいると思って外の様子をうかがうが誰もいない、はてはこれは幻聴なのかと思う。私は頭の中の舎利弗や取次師やフクロウもどき等、あらゆる人に相談するが答えは出ない、出るはずもない、みな実在しないのだから、そういうことである。

 

話を戻そう。

浜松で日本ケイテム面接会なる、の前日、私は景気づけにビジネスホテルに泊まる、コンビニATMで10万ほど豪快におろして、ビジネスホテルの部屋でコーヒーでも飲めば、少しは落ち着くと思った。
チェックインすると、少し落ち着けて何日か泊まろうと思えた、幸いまだ金はある。

スマホを見ると友人や工場関係者、仲良くなった同僚からひっきりなしに着信がある。

それらを無視して、私は必死に派遣会社の人間と会話していた。

面接会の正確な場所はもう覚えていない。

浜松だったような、愛知の豊橋だったような気もしている。

どちらにしろ、私は正社員を狙って面接に行っていた時以来の電車に乗って、面接会に向かった、行くだけだと思っていた。

どうせ仕事は見つかる、さんざんここで働かせてもらったから信用もあったはずだ。
なじみの担当の人もいたし、お互いに良い思いしかないはずだ。

ガラガラの面接会、というか一人しかいなかったような記憶もある、私は浜松ロームを希望して面接を終えた。

派遣会社からも見捨てられる

翌日、私の携帯には、不採用の文言が届いていた。

当時は今のように人手不足感もなかったためだろうか、私は当てが外れて困惑した。

家も借りれない、仕事もできない、家がない事情を説明すると派遣にも断られそうだった。

仕方がない、私は慣れ浸しんだ京都を目指すことにした、とにかくホームタウンに帰りたかったのかもしれない、私は追い詰められていた。

浜松駅駅前の小さな金券ショップで新幹線の切符を買う、なんで、そんな話になったのかもう覚えていないけど、

「色々な人に迷惑をかけて、家も仕事もなくなったので京都に行ってみる」

という話をしていた。

すると、定員のおばさんは

「そんな時もあるし、そういう時に行くのがいい、いっておいで」

と明るく背中を押してくれた、あの笑顔が今も忘れられない。

あてなどなかったが、なにかしらのコネがないだろうか、今までやった仕事に戻れないだろうかと漠然と考えていた。

なにより京都は神仏の街だ、神仏にすがりたかった。

京都

京都に着くと、ネットカフェで調べておいた、スーパー銭湯のようなところにいった。

駅からすぐ近くで、宿泊もできる。

といっても大きな風呂とロッカーがあって、あとは大型フェリーのような大部屋に椅子と毛布があって、そこで寝るだけだ。

観光客よりは、ほとんど日雇い労働者や、疲れたサラリーマン層の利用だったと思う、今だったら海外からのバックパッカーもいるかもしれないけど、けっこうディープで入りづらいイメージだ。

風呂には1人、2人しかいなかった、ちょうど町の銭湯ぐらいの広さだった。

ゆっくりと疲れをとり、洗濯をして、食堂のようなバーのようなところできつねうどんを注文して食べたように記憶している。

結構味が良くて、ああ京都に戻ってきたんだな、そんな気がした。

あくる朝、私は、七条京阪の駅まで歩いて、そこから出町柳に向かった。

叡山電鉄鞍馬寺を目指した。

鞍馬寺になにをしに行くというのでもなかった、でもいかなければ自分を保てない、そう思った。

鞍馬寺はいつどんなときでも私を温かく迎えてくれる気がしていた。

節目、節目に訪れたし、またそばの誰かが行きたいといって付き添ってきた。

バイクで寺まで行ったりもしたし、初めて就職したときも、すぐに仕事で行くことになったのを懐かしく思い出した。

季節は秋、観光客も多かった。

あてもない私は、初めてゆっくりと隅々まで見て回ったが、寺からなんのメッセージも受け取れなかった。

それどころか、まるで拒絶されているような感覚すらうけた、

まだお前が来るときじゃない、山を下りなさい

そういわれた気がした、私は山を下りた、叡山電鉄に乗ってそれからのことはあまり記憶に残っていない。

記憶にあるのは、五条あたりをフラフラしている私だけだ。自分以外の人は皆が居場所があるように思えた、この状態を長く続けることが困難なことは明らかだった。

私は公衆電話から実家に電話した。

ダンダンダンダン!全部お前が悪いアル!ワーッツ!

そうだ、全部私が悪い。
努力できなかった、踏ん張れなかった、頭がおかしかった。
うねるような細路がどこまでも続いていく・・・私はこれ以来、頻繁に仕事をばっくれるようになる。

 

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インド旅行記10

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-空港-

夕方4時まで、時間をつぶしてタクシーと交渉開始、350ルピーで空港へ、6時間前には着いてしまった。

7時まで時間をつぶして搭乗手続きへ、しかしそれからが悪夢の始まりだった、予定の11時になっても飛行機の到着がないようで、そのまま空港で一夜を明かすことになる。香港経由の便であったため、情報は混乱しており、主に香港に行きたい客が職員にくってかかる。手配されたホテルに大方の人は移動したようだったが、私と日本人男性2人と、日本人女性1人の計4人は、どういうわけか特別バスに誘導してもらうことができずに、そのまま空港に残ることになる。

空港で朝をむかえ、次のフライトは9時5分予定である、4人とも、固い椅子で1,2時間眠るのが精一杯であった。6時過ぎの手続き開始で、いよいよ移動できると期待しながら9時前の搭乗を待つが、いつまでたっても係員がゲートに出てこないし、フライト予定も少しずつ遅くなっていく。もう空港に到着してから24時間が経とうとしており、私達の疲労は濃くなっていたが、咳が治まっていたのが救いだった。
同じく空港で一緒に行動していたメンバーの内、ウルドゥー語を学んでいる学生と建築を勉強中の女性を、混乱の中見失ってしまう。2人とも学生で、とても急いでいたので救済用の香港便に乗ったのかと思われた。残された私と中年男性はどうしてもタダで帰りたいと執念を燃やしていたので、ここを動くわけにはいかない。

長い時間がかかり、ツアー添乗員の圧力などから、ようやくエアーインディアが保障に動き出す。売店で食事をとらせてくれて、ほどなくバス送迎でホテルまで移動したが、予想を上回る高級ホテルであった。

セントールというホテルで、私の一週間分の予算に相当する、一泊6000ルピーという四つ星ホテルである。

一人ずつ、シングルルームが与えられる、私は風呂を入れて一週間分の垢を流し、足を伸ばして仮眠した。とても眠かったし、いつ日本に戻れるのかという不安はすでにグルリと一回転して、もう流れに任せようという気持ちである。

目が覚めてから、ランチやディナーを楽しんだ、まるでタイタニックの映画のようなレストランとエントランス、私はある意味ラッキーだなと感じてもいた。体調はすっかり良くなっていたが、依然として情報が入らず、皆不安をかかえている。特に一人でツアー客の責任を一身に背負った添乗員の男性は、疲労の色を濃くしていった。

そんな中、夜9時頃にバスが到着し、突然の進展である。空港の中に入れてもらえないというトラブルはあったものの、最後はガラガラの飛行機に無事搭乗、今度こそ間違いない、日本に帰れるのだ。思いもかけず空港で足止めをくらってしまったが、貴重な経験もできたし、いろんな出会いがあったのでプラスに受けとめたい。

 

-3.JUN.2010 帰国-

目が覚めると、一瞬どこにいるのか分からなかった。

そうだ、飛行機の中だと気づいた時には、香港に着くというアナウンスが流れる、機内食を食べてからすぐに眠ってしまい、あっという間の5時間で、全く記憶がなく気持ち悪くさえ感じた。香港についてからは、空港の職員が迅速な対応をみせて、すぐに大阪行きの飛行機に乗り換えることができた、あまりの対応の差に、皆インドはこりごりという雰囲気だ。大阪に着くまでの間、もう眠ることはできず、機内にある音楽を聴いて過ごす、目前にせまっているワールドカップに思いをはせていた。

ゆっくり、ゆっくりと飛行機が止まる、大阪に戻ってきた、日本である。

安堵感と、ちょっぴり切ない気持ちをひきずりながら、両替を済ませた私は、京都行のバスに乗り込んだ。自分とインドに感謝したい、この旅に出られたことで色んな選択が変わっていくことだろう。

 

あとがき

インド旅行記 1

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《取次師》舎利弗さまとの出会い

舎利弗さまとの出会い

迷えるものよ 今日はあなたを迎えに来ました 我は舎利弗である。

なぜ、あなたのような高僧が私のもとへ?

取次師は必要なものを取り次ぐ、高僧だろうが阿闍梨だろうがその対象です。

さあ、教えを請いなさい。何が見えますか。

ただ一人で立ち尽くす私がいます

何かにおびえている
自分の影すらもみえない
周りは敵だらけにみえる
身をかくすところはないように見えます。

それでいい

なにがですか?

心を病んでいるということだ

(´;ω;`)ブワッ

今はどう思っています。

そんな必要はなかった、そのように思います。

私は、私には失敗が多すぎました、自分を否定してきました
でももう終わりにしたいと思っています。

続けて

荒野ではない 明るい 非常に明るい 冷たいだけではない
喜びも悲しみも すべて風に舞っています
ものすごい恐怖と
自信のなさで 私はわけもなく震えています

ここはどこでしょうか

自分と世界にある間の壁はとても大きくて

それは運命ともいえるような、選別された膜のように感じます。

どこかも分からないゴールに向かって

人が群がり、当たることのない一等賞に向かって、走っている

私もその中にいるようです。

ここはどこなのでしょうか

あなたは正しいとおころにいました

そして正しくあろうとした 世界を受け入れようとした生命の姿です

命のかたちであるといっていいと思います

それは価値のあることですよ

 

暗いトンネルが見えます

私を苦しめるビジョンです。

とても長く暗い、なにより人の匂いがする

悲しみ 不安 喧騒 なにより日々の忙しさに支配された人々のすがたです

日々の忙しさが

私を妨害しました

あるいは私を守ったのかもしれない

私に近しい細胞たちが、泣きわめき、みじめにされていきます。

なにもなかったことにされようとしている

純粋な心達が、亡き者にされようとしています。

私はひどく傷つきました。

一番あなたを苦しめたものは

 

その街には本当は誰もいなかったということです

本当におそろしく、誰にもいえなかったことですが

しかし、たしかに私一人だけがいました。

あなたはどうも感じすぎるところがある

そのおかげで本質はみえにくくなっていますよ

あなたがどう思おうと勝手ですが、

それはあなたのふるさと、つまり命の輝きが見える場所です。

あなたは死ぬ日までに命の輝きをしるでしょう

すでに見えかけているのでは

 

あるいはそうかもしれません。

私がもう少しまともであれば、良い方向に行ったのではないかと、

一つアドバイスがあるとすれば、君自身の戦いを受け入れなさい

人は他人のことはわからない
世の中には自分しかいないんだと思って
自分の向き合っている悪魔に誇りを持つのです。
あなたの悪魔は、向き合ってもいい対象ですよ。
闘うべくしてある、誇れる敵ですよとね

 

なるほど、私の問題を認めてあげると

その通りです

皆がかかえていることです
あなたの心は壊れてしまったことは残念でした
しかし、もっと壊れてしまった人もいる
自ら命を絶った人もいる
不運としか言いようのない人もいる
しかし、世の中にはあなたしかいないと思いなさい
そして、自分の問題の価値を知りなさい
あなたは自らの価値を知るでしょう

あなたは、昔とは違うはずです

ええ違うと思います
私は もうなにもできないものであるはずです。
誰も自分を称賛する人はいないでしょう
本当の意味で 積み上げることを辞めてしまっています。
どうむきあえばいいでしょうか
幸せというものが、少しは見えるようになりました。
しかし、私にはできないことのようです。
ここは荒野ではなくても
私は一人でおびえ続けるでしょう。

いいところを伸ばしなさい

人はみな、悪いところを改善しようとするけど、いいところをもっと伸ばしてみよう
とはなぜかしないんですよ
その方が何倍も大事なことに、しないんですよ。
なんででしょうかね~
当たり前のことなのにね。

巻き込まれてしまったものを受け入れなさい

少なくともあなたが語った話は、世界の本質に迫ろうとしている

それだけにあなたはこれからもとらわれ続けるでしょう

あなたは生かされるかもしれない。

あなたが語る言葉は無意識に近づいている

あなたはきょうも

全ての感情を内包した命の輝きの中にいるでしょう。

その感情と想像が、宇宙の理と、命が生きる意味を伝えていくでしょう。

 国矢眼介、あなたが思う道を進みなさい

 

舎利子様、今日はありがとうございました。

つづき

前回

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インド旅行記9

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ニューデリー

ブッダガヤーを3時間遅れで出発したマハボーディーエクスプレスは、到着予定時刻を8時間以上もオーバーした31日の午後一時に、まだデリーに着かなかった。ストップしてまた走り出し、また停止して待ち合わせである、一度遅れると遅れを取り戻すのは難しいのだろう。

しかし、インドの個人旅行をしたら2、3時間でどうこう言ってられない。場合によっては2,3日も動けない場合もあるので、待つことにすっかり慣れてしまうのである。またインド人達が、私たちと違う時間を生きているのであって、そういう時間も受け入れてしまうのだ。

私は初めて車内で、チャイ売りからチャイを買って飲み、インド人のように窓から器を投げ捨てる。少しインドに心を開いてきたのだろうか、途中停車の小さな駅で素晴らしい楽団の演奏が聴こえる。窓からその演奏をみて、異国の魅力が今、確かに体を包んでいるのが分かった、今回の旅で最も幸せだった時かもしれない。

ジリジリと照りつけ始めた真昼の太陽が車内にすいこまれていく、いつも到着はわりと突然だ。駅前のリクシャーや客引きはあまりうるさく感じなかった、私はホテルまで歩くと決めていたので、徒歩で商業の中心、コンノートプレイスを目指した。銀行やショップ、旅行会社が野球スタジアムくらいの広さの土地に、円形状に迷路のように広がっている、そこを通り過ぎると、なんとか目星をつけていたYMCAホテルに着く。私の旅行力もずいぶん上がったということを実感する、YMCAを選んだのは、なんとしてもAC付の部屋にしたかったことと、エアーインディアのオフィスが近かったためだ。少しでも良いホテルで体調を整え、日本へのフライトに臨みたかった。

私は荷物を置いてすぐに、エアーインディアのオフィスへ行くことにした。歩き方に乗っている大きなビルに行ってみたが、ここではないと門番に言われてしまう。ワーワー騒いでいるとすぐに5、6人の人だかりができる、エアーインディアと聞いて詐欺旅行会社や、単なる世話好きな人など、色々な人が集まってきた。

「ネパリか(ネパール人か)」

「リクシャーよ、バスよ」

と大騒ぎである、私は30分以上集まった人々に翻弄されたが、どうやらエアーインディアオフィスは場所が変わってしまっていることはハッキリしたので、間に合うか分からないが行ってみることにする。オフィスは5時半までらしいのだが、もう4時になろうかという時間だった。皆が一緒にリクシャと交渉してくれ、60ルピーで行ってくれるらしいので乗り込む。
運転手がここだといって私を降ろし、素直に60ルピーを受け取ってくれた。

なるほどなかなか遠い、徒歩では無理だった。時刻はもう4時半をまわっている、私は55番というものものしい整理券を受け取って、絶望的な気分になったが、5時過ぎに順番がまわってきた。すんなり日付のチェンジにも応じてくれそうだ、明後日である2日を希望したが駄目、4日なら空いているという、仕方がない、本格的にデリー観光をしようと覚悟を決めた時、明日なら良いという。私は迷ったが、明日発つことにした、ブッダガヤーであれほど足止めをくらったのがうそのように、私は明日の夜、インドを離れることになりそうだ。

決まってしまうと嬉しくなって、バスに乗ってみると10ルピーでホテルまで帰ることができた、なんとかなるものだと感じていた。さきほどの大きなビルに行くと、お世話になった警備員がいた、礼を言うとじゃあ金をくれと言われ後味が悪い、やはりインドである。

ホテルに戻り、ひさびさのお湯シャワーを浴び、8時過ぎに夕食に出るが、店も分からずマクドナルドで済ませた。インド独自のメニューを頼んだけどまずかったが、大衆は半額以下のインドメニューを食べているようだった。夜にまた咳が出始めたがAC付で快適なので、狙い通りゆっくり休むことができた、インド最後の夜である。

朝、サービスであるモーニングをインドに来てから初めて味わう。バナナにチャイ、食パン、日本で自分が用意するものと同じくらいの粗末なものだったけど、やはり弱った体には嬉しかった。チェックアウトまで部屋で過ごし、途中コーヒーのサービスもあり快適である。

昼から重い荷物を持ってチェックアウト、お土産の購入開始を開始。ミッタルティーという紅茶専門店でダージリンティーを買う、産地直売ではないが、有名店だから間違いないだろう。高級といわれるダージリンティーを2箱、ばら売りのものも買った。

つづき

 

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期間工寮をばっくれる~ホンダ期間工からホームレス~

バックレるのか バックレないのか それが問題だ

 

夜をかける

友は私を止めた、しかし私は必死に押し通ろうとした。

 

刑務所のようなホンダ寮に、落ち着きを失った私の声がこだましている。

 

「やめるうぃーやめるうぃー!バックレるうィー!」

 

友人は落ち着けて言ってくれていた、2人とも必死だった、私はなんとか説得を受け入れて部屋に戻った。

しかし、10分後、再び友人の独房を訪ねた私の表情には男の覚悟があった。

 

「やっぱり俺はやめる。みんなおかしい、俺もおかしい。」

 

友人はそうかとだけいった。

そして、部屋の鍵をだまって渡してくれ、自身は夜勤へと向かっていった。

 

3勤者(3交代の最後の深夜帯)が出勤を終えて、皆が寝静まるころ、男は行動を開始した。

必死だった、とにかく荷物を4階から、3階の友人の独房に押し付けた。

あとでどうにでもなる、当時はそう思っていた、私の通帳には150万円ほどにぎられていて、それでなんとかなると思った。

 

必死で汗まみれになりながら段ボールを運んだ、まわりからせかす声がきこえる、あるいは幻聴かもしれないがたしかに聞こえた気がした。

 

「・・・おーバックレとるバックレとる(*´з`)」

たぶん、言ってる人はいたと思う。

深夜の時間帯とはいえ、三交代の現場である、まだかなりの灯りがあったのだ。

自分の交代者にもすれ違った、その人は唖然とした表情でこちらを見ていた、私は今工場にいないといけない時間帯なのに、独房にいたのだから。

 

独房の前で、二段段ボールを必死に運んでいる姿に何を思っただろうか、私の歩調は自然と速くなった。

いまだに彼の表情を思い出す時がある、この人はなにをやってるのだろうか、そんな人間の生の表情だった。

 

友人は職に困っているときに京都から呼び寄せた、大学からの友達だ。

私が急にバックれられたのは、このリアルの友人の存在が大きい、彼の部屋を活用できなかったら、あるいは別の未来を生きていただろうと思う。

11カ月分の荷物だったので、すぐに逃げれる量ではない荷物を抱えていたから、普通の人は思い付きでばっくれるなどは難しいことだろう。

友人を、一人寮に残していってしまったことはたいへん申し訳なかったが、当時の私は逃げ切る、その思いでいっぱいだった。

 

寮をバックレてからの数日間のことはいまでもよく記憶している。

私は短期的な計画をたてて、とりあえず派遣会社に潜り込もうと考えた。

京都のアパートはもう引き払っていたし、実家の九州に戻るというのも最後の選択肢だった。

底辺マスターになりつつあった私の頭の中には、あらゆる選択肢があるように思えた。

自転車で10キロ近く走って、浜松駅まで行き、少し惜しみながら自転車を乗り捨てた。

 

自転車を買った時の古道具屋のおっちゃんを思い出す、

「浜松を離れる時は、また買い取ってやるから、社員になれたら一番いいけどな~昔はみんな社員になったニダ~」

 

そんなことを話していた。

 

しかし、私を待っていたのはバックレの未来であった、期間工でさえ私には勤まらない。

今ではこれも私の中で常識であるが、それが分かるまでに多くの苦しみが、当時の私には足りなかった。

自転車を丁寧に浜松駅のガードに乗り捨てると、私はマンガ喫茶に向かい一晩を明かす。漫画喫茶にある求人が目についた、とりあえず情報はなんでもと、漫画喫茶の求人をメモったのを覚えている。

ネットで朝方までいろいろと派遣会社の情報を調べあげた。

そして一番ひいきになっていた京都本社の日本ケイテムが、浜松で面接会なる、という情報を得た私は、それに参加することにした。

しかし、まだまだその日までには何日かあったので、ネットカフェを転々としながらその日を待った。

 

1年ぶりの自由であった、しかし自由の高揚感はバックレた日だけで終わった。

はっきりと終った、次の日からは、お金を出さないと家がないという不安に襲われた。それは初めて味わう苦しい不安だった。

 

「しんどいよーそりゃーうぃー考えかた、変えた変えた、リーマン、リーマン!」

とホンダ寮の先輩Hさんから聞いていたのを思い出した、なにをいっているのかよく理解できなかったのだが、今ならわかる気がした。

リーマンショックで死にたくなるほど追い詰められた、そういうことだったのだろう。

 

浜松駅周辺

浜松駅周辺のホームレス生活ではいろいろなことを思い出した。

一年間である、あ~鰻も食べたな~とか、あそこもいったな~とか私の人生では、人に恵まれた時期であったらしい、意外にも、思い出があった。

いろんな出会いをまた無駄にして、リセットして今の自分があるんだと思う、それは現代にまで続いている。

そして、とうとう私は自分自身を失いつつある。

 

ダンダンダンダン!全部お前が悪いアル!ワーッツ!

変な中国人が頭の中で叫んでいる.

私は変な人がいると思って外の様子をうかがうが誰もいない、はてはこれは幻聴なのかと思う。

私は頭の中の舎利弗や取次師やフクロウもどき等、あらゆる人に相談するが答えは出ない、出るはずもない、みな実在しないのだから、そういうことである。

 

話を戻そう。

浜松で日本ケイテム面接会なる、の前日、私は景気づけにビジネスホテルに泊まる、コンビニATMで10万ほど豪快におろして、ビジネスホテルの部屋でコーヒーでも飲めば、少しは落ち着くと思った。

チェックインすると、少し落ち着けて何日か泊まろうと思えた、幸いまだ金はある。

スマホを見ると友人や工場関係者、仲良くなった同僚からひっきりなしに着信がある。

それらを無視して、私は必死に派遣会社の人間と会話していた。

 

面接会の正確な場所はもう覚えていない。

浜松だったような、愛知の豊橋だったような気もしている。

どちらにしろ、私は正社員を狙って面接に行っていた時以来の電車に乗って、面接会に向かった、行くだけだと思っていた。

どうせ仕事は見つかる、さんざんここで働かせてもらったから信用もあったはずだ。

なじみの担当の人もいたし、お互いに良い思いしかないはずだ。

ガラガラの面接会、というか一人しかいなかったような記憶もある、私は浜松ロームを希望して面接を終えた。

 

派遣会社からも見捨てられる

翌日、私の携帯には、不採用の文言が届いていた。

当時は今のように人手不足感もなかったためだろうか、私は当てが外れて困惑した。

家も借りれない、仕事もできない、家がない事情を説明すると派遣にも断られそうだった。

仕方がない、私は慣れ浸しんだ京都を目指すことにした、とにかくホームタウンに帰りたかったのかもしれない、私は追い詰められていた。

 

浜松駅駅前の小さな金券ショップで新幹線の切符を買う、なんで、そんな話になったのかもう覚えていないけど、

「色々な人に迷惑をかけて、家も仕事もなくなったので京都に行ってみる」

 

という話をしていた。

すると、定員のおばさんは

 

「そんな時もあるし、そういう時に行くのがいい、いっておいで」

と明るく背中を押してくれた、あの笑顔が今も忘れられない。

 

あてなどなかったが、なにかしらのコネがないだろうか、今までやった仕事に戻れないだろうかと漠然と考えていた。

なにより京都は神仏の街だ、神仏にすがりたかった。

 

京都

京都に着くと、ネットカフェで調べておいた、スーパー銭湯のようなところにいった。

駅からすぐ近くで、宿泊もできる。

といっても大きな風呂とロッカーがあって、あとは大型フェリーのような大部屋に椅子と毛布があって、そこで寝るだけだ。

観光客よりは、ほとんど日雇い労働者や、疲れたサラリーマン層の利用だったと思う。

今だったら海外からのバックパッカーもいるかもしれないけど、けっこうディープで入りづらいイメージだ。

風呂には1人、2人しかいなかった、ちょうど町の銭湯ぐらいの広さだった。

 

ゆっくりと疲れをとり、洗濯をして、食堂のようなバーのようなところできつねうどんを注文して食べたように記憶している。

結構味が良くて、ああ京都に戻ってきたんだな、そんな気がした。

あくる朝、私は、七条京阪の駅まで歩いて、そこから出町柳に向かった。

 

叡山電鉄鞍馬寺を目指した。

鞍馬寺になにをしに行くというのでもなかった、でもいかなければ自分を保てない、そう思った。

鞍馬寺はいつどんなときでも私を温かく迎えてくれる気がしていた。

節目、節目に訪れたし、またそばの誰かが行きたいといって付き添ってきた。

バイクで寺まで行ったりもしたし、初めて就職したときも、すぐに仕事で行くことになったのを懐かしく思い出した。

季節は秋、観光客も多かった。

あてもない私は、初めてゆっくりと隅々まで見て回ったが、寺からなんのメッセージも受け取れなかった。

それどころか、まるで拒絶されているような感覚すらうけた。

 

まだお前が来るときじゃない、山を下りなさい

そういわれた気がした、私は山を下りた、叡山電鉄に乗ってそれからのことはあまり記憶に残っていない。

記憶にあるのは、五条あたりをフラフラしている私だけだ。

自分以外の人は皆が居場所があるように思えた、この状態を長く続けることが困難なことは明らかだった。

私は公衆電話から実家に電話した。

 

ダンダンダンダン!全部お前が悪いアル!ワーッツ!

 

そうだ、全部私が悪い。
努力できなかった、踏ん張れなかった、頭がおかしかった。
うねるような細路がどこまでも続いていく・・・私はこれ以来、頻繁に仕事をばっくれるようになる。

 

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検索から人が来ない、ブログ最初の1カ月の辛さは想像以上だった

ブログの最初の一カ月の辛さは想像以上だった

とにかく反応がない、やりがいがない、ネタがない

のないことだらけだといってもいい。

当ブログである『風の谷の無職』がだいたい1月半、もう一つのブログがちょうど一カ月であるが、辛い時期はだいたいあと2カ月ぐらい続くだろうと思われる。

とにかく検索から人が流れてこない

ランキングや、お気に入りからしか人が来てないっていうのがデータで一目でわかって、これが辛い。だからずっと訪問者も横ばい状態、3カ月我慢すれば爆発的に伸びるって分かってても、皆が挫折するっていうのは本当に納得した。

この無風状態は、よほどネタがある人か、特定の日記しか続かないだろう。私の前職だったタクドラのブログが多いはずだ、日々の乗務日誌をブログにできるから。

人はすぐに結果を求めようとする生き物だ

ということがつくづく分かった。でもここで踏ん張らないと前には進めないし、無職旅もブログ飯もかなわなくなってしまう。このブログは3か月後は続くと思う、失業給付もあるから、しかし半年続くかというと五分五分だろうと思う。

今後続けていけるかは

  • 完全な無職に耐えれるか

  • 訪問者の増加が実感できるか

  • 息抜きができるか

ということが重要になってくると思う、この無風状態があと3カ月も続けば挫折してしまう可能性が強い。自分では、まだまだできると思っていたが、こんな投稿をしてしまうあたり結構追い詰められているのかもしれない。あるいはネタがないだけかもしれないけど・・・しかし今日も私は生きている、そういうことだろう。

自分で勝手にハードルを上げてしまう

ブログ運営の、すべての能力が一か月間で上がったと思う。

アイコン画像の作成から、文章力、見せ方、ウェブの知識など、分からないことだらけだが、一月前とは違う。しかし、それだけに自分自身に求める記事の質が上がってきており、気軽な投稿ができなくなっている。おそらく最大の難しさはこのあたりだろうと思う。

良記事の定義はいかに手間をかけるからしい

見ず知らずの人に、何かしらの情報や感情を受け取ってもらうには10分や20分で記事は書けない。

だから、よりよく伝えるために画像作成、見出し、なにより文章量が必要だ。いろんな準備が必要だし、手間がかかってめんどくさい。でもグーグルはそういう記事を求めていて、無駄なページがあるとそれだけで検索順位は落ちてしまう。そこがブログの最大の難しさだと思う、それで自らの行動を抑制していって、最後には投稿できない、書けないということになっていくのだろう。

ブログを複数持つことが重要だと感じる

私は2つのブログを運営していることに救われている

もう一つのブログは、株専用なので、今まで培ってきた10年間の知識で更新には困らない。無風状態ということは変わらないが、主に数字を扱っているため、行う作業は全く違う。数字は自分の適性には反するし、好きなわけではないが、このブログの息抜きにはちょうどいい気がしている。ただ、このブログに比べれば気が楽だ、更新のテンプレートが決まっているので生みの苦しみはない。

収益面でもブログは多いほうがいい

広告収入の面でも、ブログを複数持っていたほうがいいと思う。複数のサイトに、複数の広告をはれば、それだけ広告数もふえて誰かの目にとまる確率があがる。現状でも、どちらかのサイトがクリックされて、毎日収益が上がっている。

長期的にみれば、このサイトはお小遣い程度の稼ぎで、もう一つのサイトに依存していくことになる気がしているが、やってみないとわからないので、このブログも大事であることは変わりない。できれば3つ、4つと無駄にサイトを増やしても、マイナスにはならないのではないかと感じている。

どうやって息抜きをするのか

伸びないと分かっていても気になるPV数などから解き放たれるには、旅行とか行くのが一番いいんだろうとは思うが、そんなお金はない。株の損失がなければ、今頃フィリピン辺りに英語留学していた頃だろう。ゲームとかで生産性のない時間を過ごしたいけれど、それもブログが書けなくなる。

3月のライオンを大人買い

ブログも書けて、息抜きもできるって、海外放浪ぐらいしか思いつかない。そんなこんなで迷って、漫画の『3月のライオン』を大人買いしてしまった。

NHKのアニメが凄い面白かったんで、ファンになりました。

1~12巻と『火の鳥』生命編も購入。そんなにお金がかかることでもないし、時間もあまりとられないですむのではないか。今、気晴らしはテレビぐらいしかないので、紙に触れるのも気分が変わっていいだろう。

更新の合間に読んでいこうと思う。

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冤罪事件、ETV特集「獄友たちの日々」を見て

ETV特集「獄友たちの日々」を見て

私は、冤罪に興味があるわけじゃないし、特に意見することもないのだけど、被害者の桜井昌司さんという人物が気になって記事にしてみる。

布川事件(62歳の男性の殺人事件)

桜井昌司さん(当時20歳)と

杉山卓勇さん(当時21歳)が逮捕。

1978年に無期懲役確定

泣いたって出られないし、叫んだって出られないし、だったらその中で、自分で良かったって思えるように過ごすしかないじゃんっていうのが、自分の覚悟だったよね。とにかく明るく楽しく、面白いもの見つけて生きていこうと思ってました。

獄中の将棋大会で活躍。音楽クラブでもトランペットを演奏し、作詞作曲までしたという。出所してからは、コンサートを開いて、CDまで出している。
その歌がまたどんな歌手よりもいいのだ、音楽好きの私が感じるのだから間違いない、あの歌唱は本物だ。

選ばれし者たちって自分でいっちゃう、選ばれたくないよな~って思うんだろうけど、若い時の写真なんかみたって本当になにも考えてなかったもんね。生きることとか、明日とか、なんにも考えてなかったよね。図らずも、一筋の道を用意してもらったっていうかね、そこで生きるしかないっていう時間を過ごしたっていうことは、自分にとって一番良かった。そういう、ただただ冤罪っていうことによってね。

1996年、仮釈放。二十歳で逮捕されて29年ぶり

1999年、結婚。

2011年5月24日、すべての物証が科学的に否定され、無罪確定。

冤罪になったことが幸せなたぶん珍しいタイプですよね、皆は許さないとかいうんですけど、私全部ゆるしちゃってますから。警察に犯人にしてもらって29年間刑務所に入っていたお陰で、ほんと幸せだった。

人の善意をまるっきり信じられるって冤罪者ぐらいですよね。本当に自分が自分でいられるって、こんな幸せなことは29年刑務所にいて50歳になって娑婆に出てきたからですよ。

残りの人生を楽しもう 過去を怨んだら僕たちは生きていけない。

番組では壮絶な思いが語られる。刑務所の中で両親を亡くしたこと、急に精神が高ぶって発作のようになってしまうこと。それでも、奥さんの支えもあってなんとか乗りこえ、自身の裁判や他の事件の支援に、積極的にかかわってきたようだ。

たくさんの仲間や支援者と過ごす桜井さんを見て

その明るさと前向きさが、いろんな人を救っているように見えた

私は明るい人間ではないし、明るい人間が凄いとも幸せとも思わない。全ての価値観はまじりあい、すべてが正しいと思っている。明るく楽しくではないと人生はだめなんだろうか、それじゃあ、暗く後ろ向きな人はどうするのだろうか、そんなことを考えてしまう。

たぶん、生と死が、片割れだけでは存在できないように、明るさと暗さ、善と悪も、同じことなのだろう。しかし、どうも画面で動いている桜井さんを見ていると、とても生き生きと魅力的に見えてしまう、ああ生きているなと思ってしまう。それはきっと、桜井さんがとても明るい輝きを放っているのと同じぐらい、闇をかかえているからではないだろうか、それが人間的な魅力になって、にじみ出るのだろう、私はそう感じた。

幸せってこのことを言うんんじゃないのか、家族以外の他人からこんなにも深い絆で結びついて、応援されている。

この人は、人をひきつける何かを持っている気がする、歌にも心が動かされた。

番組の最後に流れた言葉

私も20歳の時に、この冤罪に巻き込まれて、生きてるってなんだろう。人生って何だろうって考えまして、29年間塀の中で過ごしてきたんですけど、今私が思っているのはなにがあっても人生っていいなっていうことなんですよね。

まあ、普通の人からみますと冤罪事件に巻き込まれて29年も刑務所にいたら、辛いとか不幸だとか思うんでしょうけど、私の場合はたくさんの人に恵まれまして、幸せだったなーということがたくさんあったんですね、その体験が、私の人生は不運だったが不幸じゃない、そういう思いで今いっぱいです。

いつも千葉刑務所を故郷だと思っていまして、もういっぺん、一年ぐらい入ってみたいという気持ちになったりするんで、人生って間違いや失敗もたくさんあるんですけど、そういうのもあっていろんな楽しみがあるっていうことを刑務所生活をしたお陰で知りましたんで、ぜひ皆さんもなにかありましたら、きっとそれがいいことだと思って、頑張っていって欲しいと思います。

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ギックリ腰を寸前で回避!無職の憂鬱、モノも人も衰えていく

自分の衰えを感じる33歳

激しい肉体の衰えを感じる。

筋トレと柔軟を中学生の頃より習慣にし、かなりの柔軟性を持つ私だが、やはり運動不足は著しく、いつ大病に結びついてもおかしくないと感じる。

昨日は、狭い風呂で体を洗っていた時に、腰の上がグキッとなる。

直感的にヤバいと思いながら、テレビで紹介されていた、「ギックリ腰対処法」で

ヤバいと思ったときに前かがみにならずに、勇気を振り絞って

あ”アァーッ(; ・`д・´)

と背中を後ろにそらしキープする

ということをしてみる。ほとんどの人が、気持ちで負けて前かがみになるからギックリが固定するらしい。

バカバカしさに半笑いしながらダメ元でやってみると、そんなにひどくならず、痛みの芯はあるがなんとか動ける状態だ。

もっと真剣にやるべきだった

首を中心に、肩、腰が急に痛みはじめ、全く起き上がれなくなるという経験をしているので、昨日もそうなりそうな気配を感じただけに、これは効くのかもしれない。

しかし、かなりの勇気が必要である。

運動不足を真剣に考える時がきている気がする、旅をすれば自然と解消できるんですがね。

精神の衰えを意識したのは29歳ぐらいだった

今思えば、最初の変化は29歳ごろだった

三鷹のアパートに九州から上京した私は、タクドラとして都心に精通するべく四谷駅近くでシェアハウスも借りていた時期があった。

しかし、集団生活には馴染めずにひどい精神状態に陥ってすぐに解約してしまう。

今思い返すと、あのころすでにドミトリータイプの部屋が受け入れられなくなっていたのだなと思う。それは、昨年のベトナム一人旅でハッキリと分かった。

ベトナムのドミトリーでやっと気づく

ハノイで、シングルを見つけられずに、ドミトリーに泊まると、若者の遺伝子についていけずに苦しい思いを感じたのだ。そして同世代の旅人に、ドミトリーがきつくなってきたという同じ思いを聞いて、私は人生最初の老化を明確に感じた。

20代半ばで初めて旅した時は楽しかった。

初めて、中国でドミトリーに泊まった時は楽しかった。最初はこんな不衛生なところに泊まるのかと青ざめたが、それでも適応できた。自然と人とつながって、楽しい時間を過ごせた、ほぼ100パーセントそうであった。

新しいことが億劫に感じ、対応できない

スマホの機種変更だけでイライラする

3年以上使ってきたアイフォン5Sを、ゼンフォン3に変えたが、全く使い方が分からず、それだけで一週間が憂鬱だった。

家電量販店で、ワイマックス契約をして、ホイホイ乗せられて契約してしまう自分にも唖然とした、情弱に流されるという点でも衰えが見られる。

仕事も最初に覚えるのがしんどい

仕事も一から覚えるというのがもう厳しくなってきている。特に去年末の日野自動車期間工ではそのことを感じざるをえなかった。新しい分野に就職するというのは、気力、若さからかなりの覚悟が必要だろう、もう無理かもしれない。

ブログを続けられているのは、『ウェブ総合実践科』という、24歳の頃に受けた職業訓練が助けになったのだと思う。

そしてモノも壊れていった

昨日私が風呂に入ってギックリをやる前、マイルスを観ようとDVDを入れたときにミニコンポが壊れた。

ディスクの方が壊れたのだろうと色々試してみるが、どのディスクでも再生できず、CDの方はなんとか生きているようなので、逆じゃなくて良かった。逆なら処分か修理を検討するところだったが、とりあえず様子を見ようと思う。

ちょうど日野期間工の時に、パソコンでDVDが観れるように外付けプレイヤーを買っていたので、なんとか対応できる。

購入して4年目になるだろうか

思えば、株やタクシーで数字を求める生活の中で、唯一といってもいい癒しの存在だっただけに、なんとか踏ん張ってほしいものだ。

完全に壊れてしまったら、スピーカーだけ利用できないか検討しようと思う。

なにごとにも時間がかかる

専業の底辺ブロガーとしては、なんとか頑張っているといえるかもしれないが

とにかく、

  • ソーシャル

  • マネタイズ

などの未開拓分野については対応が遅く先延ばしになりがちだ。

ある程度は老化を受け入れなければ

20代の時とは違う

なにごとも時間がかかるんだということを前提に考えていくことが必要かもしれない。

あと、40過ぎたら心身ともに元気になるというような話を、期間工先輩方からよく聞いたので、そのあたりにも期待して頑張っていきたい。

新しいことをやるには2,3年が勝負

加えて、新しいことをやるには2,3年以内にやれたことは、今後の人生で選択肢に入れることができるかもしれない。今、自分がやっていることはブログなので、関連したことを頑張っていきたい。

幸運なことに、20代半ばに旅を経験したので、体が動くうちは精神が対応できると思う。

当面は

  • ネットでの情報配信

  • 海外への興味と活用

に軸足をおいてやっていきたいが、すべては今後1年間にかかっている。

 

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ブログ訪問者数および収益まとめ1

月末となったため、訪問者と収益をまとめてみる

無職の挑戦、今後のブログ目標をたててみたの記事でたてた目標と数字を照らし合わせてみる。

目標(中央値×2) 4月(28日間) 結果
PV(ページ閲覧数) 2,928 11,774 +8,846
合計収益(円) ¥1,404 ¥2,405 ¥+1,226

4月の28日間の数字であるが、とりあえず滑り出しは上々のようだ

PV(ページ閲覧数)について

風の谷の無職』  7,552PV

ライブドアブログ』4,222PV

PV数についてはまだ伸びが見られないが、目標値を見ると落ち着くことができる。

収益について

※2,405円に修正(5/2)

風の谷の無職』  ¥2,105

ライブドアブログ』¥536

目標収益としては、5月の数字が¥2,228だから、その数字もクリアしていることになる。

広告導入当初は、知人などからのクリックが期待されるハネムーン期間があったと思うが、ここにきて再び安定した数字を見せ始めたので、ほぼ予定通りだといえる。

記事数について

4月2日に開始して29日目のLivedoorBlogであるが、記事数が147となった。

当ブログの記事数78と合わせて、225記事

一日5記事以上を書いている計算になる。

このペースを一年間守れれば、

5×365=1,825記事となるが、少し余裕をもって1,500とする。

一年後の合計記事数、2000記事以上を目指す

それだけいければ、このブログ『風の谷の無職』と合わせて

1500+365(当ブログ)=1,865記事であるから、およそ2,000記事が可能だと思う。目標は3,000記事を目指します。

開設して一年後のブログのページ単価/月がだいたい250円~300円らしいので、

2,000×250=500,000円となる。しかし、

  • 主にアドセンスの広告収入のみの純粋なブログ
  • 初心者であり、どのくらい伸びるか不透明
  • 体調悪化などによる記事数減

などを鑑みて、単価を半額の125円とすると

2,000×125=250,000となり、約25万円となる。

( ゚Д゚)アイヤ-これくっていけるあるよ

税金を引いても充分そうだ、だいたい月15万円とかいくと更新意欲はなくなりそうだけど・・・いや15万もいらない、私は10万でいいのだ。

というわけで見えてきたのが、このブログにあまり期待はできないということ・・・背に腹は代えられない。

やはり、お上の方に

神様

『えっなにこいつまだ一年目なのに、2000記事も書いてる~うけるんだけど(*´з`)どうするよ財務大臣?』

と思わせることが大事なわけで、

財務大臣

『ただのブログなので放置していいかなと思いますが、やはり10万ぐらいはあげてもいいのかなと・・・民意が気になりますので、炎上するかもしれません』

というような会話にさせる、インパクトが大事なのである。

このブログの収益は365×125円で、せいぜい1年後に、月4万円行けばいいほうだと予想します。

とりあえず、一番苦しい月は乗り切ったかなと思いますので、

  • 疲れをなるべく貯めない

  • 燃え尽きないようにする

の2点に注意しながら頑張ります。

今後とも、『風の谷の無職』をよろしくお願いいたします。

 

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