良い会社と、良い工程と悪い期間工
土日休みを迎えて、日野の寮から30キロほど都心に近いアパートに戻っていた。
まともに勤務したのは、まだ一日だけである。火曜日採用で、水木と研修やら受け入れが続いた。
なんとなくいい会社そうだな、そんなことも思っていた。そう、実際良い会社だったのだろう、同期の人達の評判も悪くなかった。しかし、私は良い期間工ではなかったというだけの話である、むしろ悪い期間工だったのだ。
良い会社、悪い会社。
良い工程、悪い工程。
良い期間工、悪い期間工である。
だれが作ったのか知らないが、この世には正義と悪があるらしいのだ。
そこには「考える人」の彫刻家オーギュスト・ロダンが語った
「良い人も、悪い人も、罪人の顔も、すべての顔が美しすぎて私にはとうてい表現することはできない」
といった芸術家の言葉なぞ入り込む余地はないのである。
とまあ、そんなことではない、日野自動車バックレの話である。
ついつい己が行為を正当化せんがための苦しい言い訳に、巨匠殿の言葉まで引用してしまった。
正当化、正当化、また正当化かっ!フガフガッ!
人間とは弱い生き物である。
ほんの息抜きのつもりのアパートへの帰宅だった
金曜の上りには工場の売店で、軍足を買って来週にそなえていたのだから・・・。
私はやる気だった、なんとかお金を貯めれるだけためて、国外に逃げようとしていた。具体的プランは見えていなかったけど、ベトナムに住みたいと考えていたのだ。
だれだってベトナムなぞに住みたいとは思わないだろう、しかしそこにチャンスがあると思っている、そのための期間工だった。
それから3年半によるタクシードライバー勤務で、足腰が弱っていた、だから3カ月で体力強化をはかろうとしたのだ。
悪いことに金が400万円ほどあった(150万円デイトレで溶かして、現在は150万円)、私は土曜日にふと思った、なんか思ってたのと違うなぁと思ってしまった。
覚えることばかりで、3カ月では覚えられそうにない、体力も使わない、移動はなんとカートであったために、歩くことすらない。
なにより覚える仕事というのが不満だった。
辞めよう、私は友人と電話しているときにそう決意した。
その日の深夜、アパートを出て、中央高速で日野のアパートに行き、荷物をまとめた。
「フッフッフッ~~んんん~ん~ハァ~はぁ~はぁ~ゼーハーゼーハー」
必死に荷物をまとめる感覚は4年ぶりだった、バックレ行動のさなか、とんでもない人間になりさがったものだと思ったものだ。
しかし、タクドラで3年半、変な人の相手をし続けた私は思った。
まともな人間なんていなかったじゃないかと、まともじゃない人間の中で、まともじゃない人間が生きようとしている、皆が誰よりも自分を優先して、それだけのことである。
すべての整理を終えて、民間アパートの借り上げ寮は、ガランとなった。
「出ていくのけ?期間工さんバックレるのですか?ばっくれるニダか?」
そういわれているように聞こえた。
私は
「チャルンドルン二、バックレニダ~」
と適当に答えておいた。
月曜日の朝、私は平然と自身のアパートで寝ていた。
それどころかハローワークインターネットサービスで求人を眺めさえもした。
もう日野市には足をふみいれないつもりであった。
システムがよくわからないけど、ショートメールがすごい勢いできていた。
電源を切っていたが、入れたときにわかるのだ、相手だってバックレ対応のプロなのだ、電源が切られていることぐらいお見通しである。
「あなたバックレニダ~鍵がないと困るセヨ~手続き必要サムサムニダ~」
とかなんとか、いろんな誘い文句が送られてきた、しかし私はすべてを無視して完全バックレをやり遂げることになった。
なにも言わなくても、一週間、二週間、一カ月と、適切なタイミングで関係書類は送られてきた。
とうとう一度も、日野の人とは話すこともなかった、ただ鍵を郵送で送っただけだ。
期間工でばっくれてしまった人の、なにかの参考になれば幸いである。