期間工寮をばっくれる2~ホンダ期間工からホームレス~

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浜松駅周辺

浜松駅周辺のホームレス生活ではいろいろなことを思い出した。

一年間である、あ~鰻も食べたな~とか、あそこもいったな~とか私の人生では、人に恵まれた時期であったらしい、意外にも、思い出があった。

いろんな出会いをまた無駄にして、リセットして今の自分があるんだと思う、それは現代にまで続いている。そして、とうとう私は自分自身を失いつつある。

ダンダンダンダン!全部お前が悪いアル!ワーッツ!

変な中国人が頭の中で叫んでいる.

私は変な人がいると思って外の様子をうかがうが誰もいない、はてはこれは幻聴なのかと思う。私は頭の中の舎利弗や取次師やフクロウもどき等、あらゆる人に相談するが答えは出ない、出るはずもない、みな実在しないのだから、そういうことである。

話を戻そう。

浜松で日本ケイテム面接会なる、の前日、私は景気づけにビジネスホテルに泊まる、コンビニATMで10万ほど豪快におろして、ビジネスホテルの部屋でコーヒーでも飲めば、少しは落ち着くと思った。
チェックインすると、少し落ち着けて何日か泊まろうと思えた、幸いまだ金はある。

スマホを見ると友人や工場関係者、仲良くなった同僚からひっきりなしに着信がある。

それらを無視して、私は必死に派遣会社の人間と会話していた。

面接会の正確な場所はもう覚えていない。

浜松だったような、愛知の豊橋だったような気もしている。

どちらにしろ、私は正社員を狙って面接に行っていた時以来の電車に乗って、面接会に向かった、行くだけだと思っていた。

どうせ仕事は見つかる、さんざんここで働かせてもらったから信用もあったはずだ。
なじみの担当の人もいたし、お互いに良い思いしかないはずだ。

ガラガラの面接会、というか一人しかいなかったような記憶もある、私は浜松ロームを希望して面接を終えた。

派遣会社からも見捨てられる

翌日、私の携帯には、不採用の文言が届いていた。

当時は今のように人手不足感もなかったためだろうか、私は当てが外れて困惑した。

家も借りれない、仕事もできない、家がない事情を説明すると派遣にも断られそうだった。

仕方がない、私は慣れ浸しんだ京都を目指すことにした、とにかくホームタウンに帰りたかったのかもしれない、私は追い詰められていた。

浜松駅駅前の小さな金券ショップで新幹線の切符を買う、なんで、そんな話になったのかもう覚えていないけど、

「色々な人に迷惑をかけて、家も仕事もなくなったので京都に行ってみる」

という話をしていた。

すると、定員のおばさんは

「そんな時もあるし、そういう時に行くのがいい、いっておいで」

と明るく背中を押してくれた、あの笑顔が今も忘れられない。

あてなどなかったが、なにかしらのコネがないだろうか、今までやった仕事に戻れないだろうかと漠然と考えていた。

なにより京都は神仏の街だ、神仏にすがりたかった。

京都

京都に着くと、ネットカフェで調べておいた、スーパー銭湯のようなところにいった。

駅からすぐ近くで、宿泊もできる。

といっても大きな風呂とロッカーがあって、あとは大型フェリーのような大部屋に椅子と毛布があって、そこで寝るだけだ。

観光客よりは、ほとんど日雇い労働者や、疲れたサラリーマン層の利用だったと思う、今だったら海外からのバックパッカーもいるかもしれないけど、けっこうディープで入りづらいイメージだ。

風呂には1人、2人しかいなかった、ちょうど町の銭湯ぐらいの広さだった。

ゆっくりと疲れをとり、洗濯をして、食堂のようなバーのようなところできつねうどんを注文して食べたように記憶している。

結構味が良くて、ああ京都に戻ってきたんだな、そんな気がした。

あくる朝、私は、七条京阪の駅まで歩いて、そこから出町柳に向かった。

叡山電鉄鞍馬寺を目指した。

鞍馬寺になにをしに行くというのでもなかった、でもいかなければ自分を保てない、そう思った。

鞍馬寺はいつどんなときでも私を温かく迎えてくれる気がしていた。

節目、節目に訪れたし、またそばの誰かが行きたいといって付き添ってきた。

バイクで寺まで行ったりもしたし、初めて就職したときも、すぐに仕事で行くことになったのを懐かしく思い出した。

季節は秋、観光客も多かった。

あてもない私は、初めてゆっくりと隅々まで見て回ったが、寺からなんのメッセージも受け取れなかった。

それどころか、まるで拒絶されているような感覚すらうけた、

まだお前が来るときじゃない、山を下りなさい

そういわれた気がした、私は山を下りた、叡山電鉄に乗ってそれからのことはあまり記憶に残っていない。

記憶にあるのは、五条あたりをフラフラしている私だけだ。自分以外の人は皆が居場所があるように思えた、この状態を長く続けることが困難なことは明らかだった。

私は公衆電話から実家に電話した。

ダンダンダンダン!全部お前が悪いアル!ワーッツ!

そうだ、全部私が悪い。
努力できなかった、踏ん張れなかった、頭がおかしかった。
うねるような細路がどこまでも続いていく・・・私はこれ以来、頻繁に仕事をばっくれるようになる。

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