うぃ~教典 二章:その2、物乞いの教え

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うぃ~教、教典

二章その1

物乞いの教え

原本

指導者ブッダの修行した国を見聞せんと欲し、よく足跡を訪ねる。

インドの地、かつて天竺なる地においては、現在でも陰陽を随所に見じ、またそこここに思想と信仰息づき、混沌なる大地より哲学が生まれるを知る。

かの国、いまだに物乞い多きことから、これ最もこの国の困難を知る要素として、巨大かつ混沌なるこの国を想いて、指導者ここから大いなるうぃ~を感じ、これに学ぶ。

物乞いの子供、指導者自らの感性を諭すも、貧しさのあまりに現地の言葉も話せず、ただ慟哭を繰り返すのみで、指導者これにひどく心を痛め、真っ黒な腰布のみの肌にそっと触れることのみ。

物乞い我を見つめるも、そこになんの隔たりあろうか、いずれ身同じく醜く果てて、これ同じ道を辿らんことから、汝は我、我は汝を知り、指導者の感念によってこれを伝えんとす。

命によって死は等しく平等であり、死が平等である限り、生が平等であることを知る。死の苦が平等であるならば、これ生の苦も平等であることを知り、迷いながらも指導者、たがいの苦楽は等しきものなりと断定し、安堵と共に命のありがたさと救いを想う。

苦楽の陰陽は一つなりて、一方を見ること叶わず、これ宇宙万物に共通の真理なりて、物乞いに指導者大なる苦をみるも、これ自身の苦と同じを知り、一つのものなり。かつて行った過去、これから行く未来、指導者この物乞いにならんと欲し、それを肯定する。

絶望の中に歓喜の遠忌あり、歓喜の中に絶望の因果あり、もろもろなければ、これもまたなし。

指導者つねに自身を見聞きし、絶望と歓喜の感受するその時、常にこれ対の因果を受け入れ、これを楽しむものであり、これをうぃ~のお導きの一つとしてここに記す。

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