インド旅行記9

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ニューデリー

ブッダガヤーを3時間遅れで出発したマハボーディーエクスプレスは、到着予定時刻を8時間以上もオーバーした31日の午後一時に、まだデリーに着かなかった。ストップしてまた走り出し、また停止して待ち合わせである、一度遅れると遅れを取り戻すのは難しいのだろう。

しかし、インドの個人旅行をしたら2、3時間でどうこう言ってられない。場合によっては2,3日も動けない場合もあるので、待つことにすっかり慣れてしまうのである。またインド人達が、私たちと違う時間を生きているのであって、そういう時間も受け入れてしまうのだ。

私は初めて車内で、チャイ売りからチャイを買って飲み、インド人のように窓から器を投げ捨てる。少しインドに心を開いてきたのだろうか、途中停車の小さな駅で素晴らしい楽団の演奏が聴こえる。窓からその演奏をみて、異国の魅力が今、確かに体を包んでいるのが分かった、今回の旅で最も幸せだった時かもしれない。

ジリジリと照りつけ始めた真昼の太陽が車内にすいこまれていく、いつも到着はわりと突然だ。駅前のリクシャーや客引きはあまりうるさく感じなかった、私はホテルまで歩くと決めていたので、徒歩で商業の中心、コンノートプレイスを目指した。銀行やショップ、旅行会社が野球スタジアムくらいの広さの土地に、円形状に迷路のように広がっている、そこを通り過ぎると、なんとか目星をつけていたYMCAホテルに着く。私の旅行力もずいぶん上がったということを実感する、YMCAを選んだのは、なんとしてもAC付の部屋にしたかったことと、エアーインディアのオフィスが近かったためだ。少しでも良いホテルで体調を整え、日本へのフライトに臨みたかった。

私は荷物を置いてすぐに、エアーインディアのオフィスへ行くことにした。歩き方に乗っている大きなビルに行ってみたが、ここではないと門番に言われてしまう。ワーワー騒いでいるとすぐに5、6人の人だかりができる、エアーインディアと聞いて詐欺旅行会社や、単なる世話好きな人など、色々な人が集まってきた。

「ネパリか(ネパール人か)」

「リクシャーよ、バスよ」

と大騒ぎである、私は30分以上集まった人々に翻弄されたが、どうやらエアーインディアオフィスは場所が変わってしまっていることはハッキリしたので、間に合うか分からないが行ってみることにする。オフィスは5時半までらしいのだが、もう4時になろうかという時間だった。皆が一緒にリクシャと交渉してくれ、60ルピーで行ってくれるらしいので乗り込む。
運転手がここだといって私を降ろし、素直に60ルピーを受け取ってくれた。

なるほどなかなか遠い、徒歩では無理だった。時刻はもう4時半をまわっている、私は55番というものものしい整理券を受け取って、絶望的な気分になったが、5時過ぎに順番がまわってきた。すんなり日付のチェンジにも応じてくれそうだ、明後日である2日を希望したが駄目、4日なら空いているという、仕方がない、本格的にデリー観光をしようと覚悟を決めた時、明日なら良いという。私は迷ったが、明日発つことにした、ブッダガヤーであれほど足止めをくらったのがうそのように、私は明日の夜、インドを離れることになりそうだ。

決まってしまうと嬉しくなって、バスに乗ってみると10ルピーでホテルまで帰ることができた、なんとかなるものだと感じていた。さきほどの大きなビルに行くと、お世話になった警備員がいた、礼を言うとじゃあ金をくれと言われ後味が悪い、やはりインドである。

ホテルに戻り、ひさびさのお湯シャワーを浴び、8時過ぎに夕食に出るが、店も分からずマクドナルドで済ませた。インド独自のメニューを頼んだけどまずかったが、大衆は半額以下のインドメニューを食べているようだった。夜にまた咳が出始めたがAC付で快適なので、狙い通りゆっくり休むことができた、インド最後の夜である。

朝、サービスであるモーニングをインドに来てから初めて味わう。バナナにチャイ、食パン、日本で自分が用意するものと同じくらいの粗末なものだったけど、やはり弱った体には嬉しかった。チェックアウトまで部屋で過ごし、途中コーヒーのサービスもあり快適である。

昼から重い荷物を持ってチェックアウト、お土産の購入開始を開始。ミッタルティーという紅茶専門店でダージリンティーを買う、産地直売ではないが、有名店だから間違いないだろう。高級といわれるダージリンティーを2箱、ばら売りのものも買った。

つづき

 

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インド旅行記8

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-ブッダガヤー-

5月27日

街ではブッダの誕生日を迎えて、朝からお祭りモードである。昨日、ブライアンに聞かなかったらなんのことか分からなかったところだ、様々な衣装をまとった団体が、旗を持って行進していく、目指すはマハボディー寺院だろう。なぜ今インドに来なければならなかったのか、その答えがようやく分かった気がした、私は釈迦に呼ばれたのかもしれない。

体調は相変わらず良くない、下痢で放屁しただけでパンツを二度もぬらす、ズボンまでいかなかったのが奇跡としか思えなかった。気分の悪さと、ドミトリーの非衛生さに耐えられず、シングルルームに移る。なんとか6月1日か、2日の便で日本へ発ちたいと思う。

28日

もう何日間、咳で苦しんだだろう、胸をつくかつてない咳に私はもだえ苦しんだ。現地のや薬局で薬を入手し、飲み続けているのだが治らない、もう長いこと観光も人との会話も、絵にも距離をおいてしまっている。ブッダガヤーに来て2日目からまったく寝てばかりである。

29日

朝起きてみてようやく回復を実感できる。絵も描けそうなので、マハボーディー寺院を描きに行く、おそらくこの旅最後の作品になるであろう。私が途中で旅を終えてしまったことを、自分自身に納得させるような絵が描きたかったが、それはこの体調の中、困難なことのように思われた。

描きはじめるとすぐに子供詐欺師を呼び寄せてしまう、しかし、私が行かないというとやはり子供だ、待っているといったものの30分も待ちきれずに何処かへ行ってしまった。この街には日本語堪能な人が多く、おそらくシーズン中はツアーなどが多いのだろう。二時間後、なんとか完成したが、右手の震えがあって、少し淡く弱々しい感じの絵になったが、今の実力は出せているし、一生懸命集中できたことは絵から伝わってくる。右手の震えは耳の不調のせいだろうか、ずっと右耳にフィルターがかかっているような、もう何日も耳ぬきができない、はやく耳鼻科を受診したいものだ、これがなければおそらくバラナシ行きを選択したんだろうと思う。

とりあえず、絵の仕上がりに満足した私は、ホテルに戻って水シャワーをあび、持ってきていた「深夜特急1」を少しだけ読んでから街へ出る。常連となっているフジヤレストランへ行って、サンドイッチを食べた。帰り際子供から

「ヘイ、トモダチ」

と声がかかる、何事かと思うと

「ボール!ボール」

と言っているようだ、私から少し離れた広場にボールが転がっていた。なるほど日本語で叫べば気付いて、取ってくれると思ったのだろう、私は笑いながらボールを投げると、少年の頭を大きく超えていった。二人とも笑顔になったが、その後肩を壊して冷えたペットボトルで冷やすのだった。昨日まで、顔色悪いとか、やせたとか、まるで病人扱いだった私は、いよいよ復調しつつあるようだ。その分、街の人たちが私に心を開いてくれているのだろう、やはり体調次第だなと改めて感じた。

まだ観光する気力も戻らないので、私はホテルでゴロゴロしたりして、夕食後にはウロウロ起きてレストランを目指す。まるで日本の無職状態だなと思って、自分でも可笑しかった。

新しく見つけたレストランには日本語の上手い23歳の若者がいた、話してみると関西の鉄道や地理など、私より知識を持っていて驚かされた。

しかも彼は、東北、青森から九州の鹿児島まで、私が行ったことがない土地も回っているらしい、それもそのはずで、彼の妻は日本人らしいのだ。

年は26歳で京大卒、このレストランで出会ったという。たしかに日本語堪能で、なかなか深い話が自然とできる彼に、心を開くのも分かる気がした、思い切りの良い日本人もいるものだ。彼も日本に住みたかったが、やはり馴染めないようで、今は妻と娘二人を日本に残し、行ったり来たりしているらしい。

彼にジャニーズのことなどを教えてもらったり、私がヒンドゥー教についての知識を話すと、君のように説明できた人は初めてだと感心された。私の方も、異教とはいえ、よりよく生きるための宗教を実践しているインドという国に感心した。厳しく、貧しく、哲学的な人々の中から、無数の教えが発生していったのだ。

私は一通り話をしながらチョーメンを食べ、ホテルに戻った、チョーメンはコルカタの屋台で食べたものの方が、はるかに美味しかった。

短いような長い滞在を終え、明日はデリーに向けて出発である。

つづき

※画像はブッダが骨と皮になるまで瞑想し、スジャータのミルク粥で命を救われた前正覚山と悟りを開いた場所にある菩提樹。

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インド旅行記6

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-サダルストリート-

一通り会話を楽しんだ後、彼はもっと話したいという、私は一緒に散歩しながら清潔な身なりや、ハイテクノロジーで武装されたお金のありそうな彼を、次第に信用していく。一旦、ホテルに戻りたいといったものの二度目のランチの約束をしてしまい、他の日本人旅行者に色々アドバイスを求めると、やはりあまり信用しない方がいいという意見だった。しかし、彼の状況があまりに細かく、日本語が話せる友人もいて、電話で会話したりするうちに、なかなか100パーセント疑う気にはなれなかった、今考えるとまだまだ経験不足だったなと思う。ランチの時、彼の態度が冷たくなってきたように感じたので、ディナーの約束をすっぽかして、ホテルマリアで、モトシさんと最後の夜に酒をかわした。前日のクニオさんが飲んでいた酒があまりに美味しそうだったので、一人で飲み直したかったのだが、ちょうどモトシさんと会って飲むことになったのだ。

ストリップ劇場弟子入りの件など、昔の染公房時代の話がとても盛り上がって楽しく話せた、人間はやっぱり経験値だなと感じる。モトシさんとは日本で会っても深くかかわらないであろうタイプの人だから、ストリップの話がとてもネタになって助かったのである。もとしさんからブッダガヤーの情報をたくさん得ることができて、とても有意義で、瞑想の教室にも挑戦してみようと決める。パラゴンはパラゴンで、三階に人の輪を創って酒を交わしている、今日も濃く長い一日がふけていく。

 

5月23日

朝食を食べようと9時頃からウロウロして、いつものトーストは嫌だと、たまたま入った店で昨日のインド人にバッタリ出会ってしまう。モトシさんからの情報で他の日本人も声をかけられており、同一犯の詐欺師と分かっていたので、厳しい態度で店を出ることができた、バナナを買ってそそくさとマリアに戻った。10時過ぎから、ようやく念願のマリア3階からの風景画にとりかかり、理想通りとはいかなかったが、筆の走りはよく、青系でまとめられた絵には、昨日と今日のほろ苦い思い出がにじんでいた。少し気分を変えたいのもあって、昼寝をしてからパラゴンへ、マザーテレサの家でシスターのお話が聞けるというので、どんなものかと連れて行ってもらった。カトリックをベースとしているものの、仏教的な話もあって、興味深く、楽しく最後まで聴くことができた。あそこまで若者に、なにかを伝えようと真剣に語る人は記憶になく、内容以上にとても感動的ですらあった。

 

5月24日

とてもいいことがあった、散歩がてらATMで一万ルピーを引き出した。すると見事に全てが1000ルピー札、初めて見るお札に戸惑いを覚えるも、なんとかして使っていこうと警備員付のマクドナルドや本屋に行くことがどこも受け取ってくれない。もうこれは使えるところはないなと悟り、銀行で両替をお願いしてみようと、適当に見つけた大きな銀行に入った。

 

しっかりした風の銀行マンに両替を頼むと、嫌な顔一つせずに100ルピー札を20枚と、500ルピー札を16枚にしてくれた。サダルストリートの両替所では、10パーセントもの手数料を要求されたことがあったのでえらい違いだ。私は嬉しくなって、早速この嬉しさをインドに還元しようと、1ルピーを握りしめ、片腕がなくても必死に芸をしているおじさんに投げた。本当は50ルピーでも良かったのかもしれない、まあでもインドへの気持ちであるから、良いのである。

マリアに戻っても、あまり居場所がなく、なんとなくすぐにパラゴンに足が向く。パラゴンには新しく入った顔や、ぞくぞくと新顔の人も入ってきて、自分のコルカタの旅も終わったなと感じた。ハイブチさん達と2,3日前にでていたらどうなっていただろう、でも今日がベストなタイミングだと思う。モトシさんとも話せて、マザーハウスの家にもいけたし、なによりコルカタなら、初めての旅行者なら案内できる自信もついた。たったひとつ後味の悪さが残っているけど、自分の中にしまっておこうと思う。もう旅立ちの時、はるかな思いを何度抱いたかわからない、最もあこがれた人、仏陀の足跡を垣間見る場所への旅立ちである。

旅立ちの前に抱いていた気持ちに、なにをしても自分はだめだよなという気持ちがあった、今では全否定じゃなくて、少しだけ認められるようになった。自分は豊かな感受性で世界を楽しめる人、いろんな知識も、絵も描ける、インドはそれを祝福してくれたように思う。嫌いな面、変わりたい面、色々あると思う、でも、今は自分の感性を守りたいと思った。

つづき

 

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インド旅行記5

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-コルカタⅡ-

コルカタの気温にとまどい、体調の悪さも昼間からピークに達する。パラゴンのドミトリーに着くなり死んだように眠り、8時過ぎになにか食べておかないとと思い、やっと起きて外へ出る。一人で歩くサダルストリートの夜は、すこし以前より小さく身近に感じた。私はホテルのすぐ近くにある馴染みの、あんかけ麺をたべ、食後にラッシーを飲んだ、とても美味しく体調も回復しそうな気がした。自分にはこの暑さでも、中央インドがしっくりくる、ダージリンとかガントクは今の自分には合わなかった。ゆっくりしにインドに来たわけじゃない、この暑さを味わいに来たのだから・・・。

コルカタに戻ってきた1日目は、ひたすら寝ていたおかげか、2日目には回復していた。この日は、日本人大勢で、少し離れた植物園に行くことになる、世界一の樹であるバーニヤンの樹を一目見ておこうというわけだ。ひさしぶりの観光で胸躍り、暑い日差しの中をやっと思いで見つけたわりには、いまひとつであった。もっと迫力のある風貌を想像していたので、貧相に感じてしまったのだ、見せ方も良くない。しかし、エスプラネードを多くのバスが経由すること、ハウラー駅行きのバス停が分かったことなど、交通面での収穫が多かった。

夕方から、パラゴンの思い出にと絵を描いて、とても良い傑作ができた。周りの人々もなんとなく集まってきてとても褒めてくれる。絵をやっていて良かったなと感じたし、自分の唯一の武器にできるかもしれない、と初めて思い知った。絵を囲んで雑談していると、ひときわ絵に興味を示す女性がいた、彼女も絵を描くそうだ。彼女はリナさんといい、マザーハウスのボランティアで滞在しているらしい。私も絵を見せてもらって、とても良い感性をしているなと感心した。

私の絵が、「つみきの家」の雰囲気ににているといわれ、とても嬉しく、自然と話が盛り上がってしまった。「つみきの家」は私がバイブルのように位置づけたアニメーション作品だからだ。遠い異国の地で、同じ感性を持った人に出会えたことはとても感動的で、良い思い出となった。

コルカタ3日目は、すっかり打ち解けたハニブチさんと、鉄道予約オフィスへチケットを取りにいく。何が良かったのか、会話は途切れることなく続き、道に迷いながらも楽しい道中であった。切符を買う直前になって、私はバラナシからブッダガヤーへと行き先を変えてしまう。この判断は自分らしいといえばそうなのだが、行かなければもう一度インドに呼ばれるだろうと感じたからだ、もっともルンビニーや南インドに呼ばれないという保証はないのだが・・・。それからインド人にボールペンを貸してそのまま逃げられてしまいショックを受けた、ボールペンが貴重品だと認識していなかった自分のミスである。

夜はソナガシへ行く、自分は行ったことがある唯一のメンバーとしてまた重宝がられた。タクシーを6人でシェアして往復300ルピー、安いものだ。結局街をのぞいただけで、皆でそろって帰ることになる、一週間前のメンバーと比べて、タイプの違う上品なメンバーだった。

この旅に感謝しないといけない。まず自分に感謝し、親に感謝し、お金という意味で、日本国民全員に感謝したい。この旅で、危険な目にあうかもしれない、しかし例え命を失うことがあっても、日本で過ごすよりもはるかな苦労、喜び、人とのつながりをを確かめられた気がする。インドにも感謝したい、この旅でもっと自分のことを少しでも理解して帰りたいと思う、きっと前よりも自分のことが好きになれ、認めてやれると思う。ホテルマリアに移って、シングルルームの中で出てきた言葉に、自分でもほっとする。

 

5月22日

5月22日は、朝から一人でカーリー寺院へ予定通り出発、昨日のお酒も残っていたし、寝たのは二時ごろだったはずだが、なんとか6時半には起床、メトロでカーリーへ向かった。カーリー寺院までの道も自信がなかったが、パクシーシのような、でもお金も求めてこなかったから単なるヒンデゥー教徒だかがガイドしてくれて、すぐに見つけることができた。
噂通り一時間ほど待たされたが、その瞬間はいきなり訪れた。私が立ち上がって、人込みに入った時、屈強な男性が、今にも大鉈をふるわんとするところだった。泣きわめく子ヤギに、ためらいもなく大鉈がふるわれる、子ヤギはすぐに首と胴体が分かれ、死への道を辿っていった。打ち震える観衆と、たんたんと解体をすすめる執行人、そのコントラストはまるで、無言のお経のようにその場にひびいていたように思う。一匹で終わりだろうか、時間が空きそうなので、そそくさとその場をあとにする。
地下鉄に乗っていつもの場所で朝食を済ませたころ、まだ時刻は朝の9時過ぎであった。いつもなら、一人の時はチャイを自分からお代わりすることはないのだが、この日は自ら2杯目をたのんだ。まるで、朝の衝撃をリセットするかのように・・・。

それで、コルカタ、サダルストリートの詐欺師を呼び寄せてしまった。

つづき

 

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インド旅行記4

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-ガントク-

ふらふらになりながらシィッキム州、ガントクにたどり着く、運転手も途中でタイヤを交換したり、小さなタクシーで頑張ってくれた。私は心からのお礼を言い、ほぼ流されるままに地元タクシーに乗せられ、100ルピーで”ニューモダンセントラルロッジ”というホテルに行ってもらう。ホテルインしてすぐにウトウトしていると、従業員がきてチェックインしろという、私はそれを済ませ街をブラついてみた。あまり気は乗らなかったが、次の段取りのために観光案内所を訪れた。

全く一人旅に戻ったのだ、これをやりに来たんだ、と自分にいいきかせていたが、下痢と絶食、洗えない体で気分は沈んでいた。次の目的地は、少し下った場所にあるカリンポンというところ。私はなんとかその旨を伝え、どこへ行けだの、ここへ行けだの哀れな異邦人だ、さんざん歩いたが結局、たしかな情報を得ることはできなかった。ダージリンでは最終的にお金で解決してしまったので、今回は何とか予約なり、安心できる情報を集めないといけなかった。

乗りたかったロープウェイがストライキで停止しており、初めて屋外で絵を描く。トイトレインといい、今回の旅は何度もストライキに泣くことになる。なかなか良い絵が描け、インド人からグッドピクチャーと褒められ嬉しかった。ガントクの街は斜面に沿って開けており、町歩きは坂の上り下りが多くなるが、建物に色彩が多く絵の題材も豊富である。
昼に、モモという、小籠包風のチベット料理を食べたレストランがとても美味しく、私は夕食もそこで済ませることにした。入るとなにやら日本語が聞こえる、3人組の男性は日本人らしかった。私は挨拶をしてテーブルに入れてもらうと、皆同じホテルだと分かり、ハニブチさんとう方の部屋になだれこんだ。

皆一人旅で、何ヵ国にもわたって旅をされている方もいた、それだけで委縮してしまう。私にとってインドから国境を越えたり、航空券を買ったりして東南アジアへ行ったりすることは、未知の領域であるのだった。ハニブチさんはたくさんの本とパソコンを持っており、私も「ヘミングウェイ短編集」をいただき、ネットもさせてもらえて本当に助かった。それぞれの異国物語を聞きながら、ガントクの夜は更けていった。

 

翌朝

SNTバスターミナルへ向かうために目覚ましをセット。しかし、二度寝してしまい予定より遅れて7時半頃ホテルを出ようとするが、鍵が閉まっていてあかない。欧米人達が騒いでいたので、まあすぐあくだろうとホテルのソファで休んでいると、欧米系の女性が

「お散歩行けますよ」

と言ってくれる、おーすごい日本語である。

バス停に着いて、人込みと罵声で圧倒されてしまうが、自分がアクションを起こす以外道はないのだ、かろうじて列になっている場所に並んでみる。昨日、3人から聞いた情報によると、ストライキの影響で僻地にあるカリンポンに行くのは困難らしく、私はダージリンまでの中間地点、ニュージャルパイグリまで戻ることにしていた。

2時間ぐらい並んでようやくチケットが買えた、一度並んだだけで済むと思っていなかったので安堵したが、後に500ルピー騙しとられていたことに気付いた。よく考えたらバスのチケットが600ルピー以上するわけがない、私は要求されるがままに金を追加してしまったのだ。ついでにニュージャルパイグリからコルカタ行きの列車も取りたかったが無理であった、すでに満席らしい。

もう3日もシャワーを浴びていない私は、この日ホットシャワーが出る中級ホテルに移った。インド初のシングルルームである、ホットシャワーも充分にでて、窓からの景色も楽しみ絵を描いた。しかし、その安静も長くは続かない、従業員がいきなり入ってきて、無理やり部屋を2回も移動させられて、何年かぶりにキレてしまった。しかも、最初の高額な部屋の料金をきっちり請求してくる、最悪のホテルである。

翌朝、ニュージャルパイグリまで行き、そこからサイクルリキシャーでニュージャルパイグリ駅へ、なんとか二等自由席を手に入れてコルカタへと戻った。この移動中、私のプレッシャーは頂点に達していた感があり、とても不安だった。

情報もなく、旅行者もいない、とても気をはっていたと思うが、なんとかコルカタに戻れたのは運が良かったとしかいいようがなかった。

つづき

 

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インド旅行記3

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-ダージリン-

同じくダージリンを目指すスイス人の女性と3人で、コルカタ、シアルダー駅へタクシーで向かう。そこから三段寝台列車でニュージャルパイグリ駅へ、すぐに客引きが現れて、ぎゅうぎゅうのジープに詰めこまれた。くねくねの山道を3時間、座った席も悪く、酔ってはきそうになる。降ろしてくださいと何度も言いかけたが、なんとかダージリンに到着した。

この街には、ヨーロッパ、イギリスの香りが漂っていた。私が住んでいるアパートの村田さんのおすすめホテル・プレステージへ、すぐに見つけることができた。話通り、岡山出身の日本人の奥さんと日本人による旅ノートが迎えてくれた、村田さんの知り合いということでたいへん驚かれ、喜んでもらえた。

シィッキム州の情報なども、快く教えてくれて助かった、部屋はケンさんとシェアすることにして、一泊350ルピーを2人で払う、停電とホットシャワーがでないが仕方ないところだ。この日のうちに、シィッキム州へいくためのビザを取得して、翌朝には早起きしてタイガーヒルに向かった。

あれほど見たかったカンチェンジュンガ(8586m)であったが、残念ながら季節のせいもあって、中央線からみた北岳にはとてもかなわないと感じてしまい、期待が大きかっただけに残念であった。

 

ダージリンの街並みは、良い感じの時計台を中心に、街全体が南北に広がっている。中央に近い広場には休日でもないのに、避暑に訪れた人々がベンチに座り語らっている。犬や馬も、暑さ極まるコルカタとは違い、のんびりとして見える、チャイは気温も手伝ってさすがに美味しかった。ただ、若干ミルクコーヒーばかり朝から3杯も飲んでしまった日があって、自分が相当なコーヒー好きということが判明した。

標高が高い(2134m)だけあって、昼でもそこまで暑さは感じない、でも基本的には電力不足のようで、夜はローソク暮らしとなる。私の100均電灯は、早くも故障して使いものにならなかった。暗闇はローソクで対処できたが、ホットシャワーが出ないのは致命的で、初日から風邪気味になってしまった。そして、とうとう下痢になってしまい、やはり少し滞在してから下痢になるというのは本当のことであったようである、腹痛はないものの、1時間おきにおしりからシャワーが噴出した。

一緒にコルカタから行動を共にしていたケンさんは、ダージリンでなにやら思い直して自分もシィッキムに行くと言い出したので、2人でガントクを目指すことになったが、その日のビザ申請が上手くいかず、迷いもあるようだった。そんな中、ネパールインする日本人女性と出会ったらしく、私は改めて一人でガントクを目指すことになった。

下痢の中、このたび1枚目の絵をホテルの窓から描く。ようやく一仕事終えた気もしてほっとしたが、明日は一人でシィッキムを目指さなくてはならず、頭痛や熱も出てきて大いに不安である。

 

あくる日、ダージリンにとどまり休もうとするが、ケンさんと記念写真を撮っていたりしたら下痢が4時間くらいは持ちそうに感じて、出発を決意した。ケンさん、ホテルのオーナーにあいさつを終えて、9時ごろに乗り合いジープ乗り場へ着くと、右も左も分からずにたちつくした。私の英語も聞いてもらえず、とにかくジープにはもう乗れないらしかった。タクシーのおじさんが

「2200ルピー」

と声をかけてくる。私は1日でもはやく出て先へ進みたかったので、体調不良の中ジープに耐える体力もなさそうだし、約15倍もするタクシーに乗ることに決めた。only youといった運転手だったが、少し待てといってすぐにインド人女性が乗ってきた、私はすでにお金を払っており、このまま置き去りにされるかと思っていたので、安堵感からなにも言えなかった。その女性はインド入りしてみた中で最も美しく、私は改めてインド人女性の美しさに魅せられた。ダージリン行きの時よりは広々しているが、ほとんど絶食状態が続いていた私の体には、5時間の悪路はハード過ぎた。

今回の旅は山々を廻ることになったが、もう私は電車以外の長距離移動は無理そうなので、今回の旅で最後にしようと何度も思っていた。私は、コルカタへの思いが益々大きくなっていくのを感じていた。

つづく

 

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インド旅行記2

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-空港-

飛行機を降りた瞬間、私はインド一人旅の厳しさを思い知ることになる、なにも頼るものがないのだ。自分でやるしかないんだな、どんなに苦しくてもすべて一人で責任を負わないといけない。この現実は、はっきりいってインドの地を踏むまで見えていなかった。日本に帰りたい、今すぐに帰りたい、私は素直に、実に反射的にそう思ってしまう。上空からデリーやムンバイの夜景を眺めた時とはえらい違いだ。手始めに出国カードの提出で、私はインドの洗礼をうける、

「なんだこれは」

と検査官、私が緊張から出国カードを握りしめていたので、しわくちゃになってしまっていたからだ。日本では問題ないレベルでつっぱねられて面食らった。新しい紙に書いてこいと怒鳴られ、ひきかえしている私を見て、3人ぐらいでゲラゲラ笑っている。私は負けまいと違うゲートの検査官にアタックしてゲートを通った。

空港の中が右も左も分からない、職員は誰か、みんなインド人なのか。混乱していたが、次の乗り換えは6時、あせらなくても良いはずだが、足が自然と小走りになる。いつの間にか、北京の青年とも離れてしまっていた。とりあえず人に聞きまくり、途中「ラゲッジ」の意味が分からずに、大丈夫かと心配されたり、教えたから金よこせといわれたり、カルチャーショックも受けながら、とりあえず、コルカタ行の便に乗るメドがたったので待つことにした。

 

-コルカタ-

長い空の旅を終え、コルカタに入り、私はメトロのダムダム駅で地下鉄を待っている。

なんと日曜日は14時からしか動かないそうで、ふざけてるとしかいいようがない、公共交通じゃないのか。
私はバスでこの街を走った瞬間、すぐにこの国が大っ嫌いになった、とにかく混沌としすぎている。カルチャーショックが大き過ぎて、頭の中をグルグルしている。なんて無謀な旅に出ようというのだろう、この国の人々の人間力は、日本人とは比較できないほどに強い。そして、今まで見てきた人間とは全く違う、異質な人達が街を創っている。平気で道の中央で眠る人、けたたましい声、堂々と歩いているイノシシ。私は、一、二週間でリタイヤしてしまわないよう、なんとか体を休めながらでも歩を進めようと思う、とにかくダージリンとバラーナスへは行かなければならない。
ダムダム駅で2時間つぶせるほどの自信がない私は、なんとか歩いてホテルパラゴンがあるサダルストリートまで歩けないものかと考え、分かりやすそうな川沿いに出ようと移動を開始した。しかし、暑さと疲れから気持ちがぶれるし、うまく方向もつかめないまま南へ行ったり西へ行ったり、歩き回っただけでいっこうに着きそうにない。確保されていた地下鉄ダムダム駅までの道のりも、完全に見失ってしっまった。私は自分の無鉄砲さにあきれ、現在地すら分からない自分の現状を憂いだ。

暑さに完全にやられ、大通りでタクシーを拾う覚悟を決め、警官風の男性に道を聞く、

「座っていろ、私にまかせておけ」

そう言うと住民と相談しながらバスを止めて。バスカーストの男に、降ろす場所と指定してくれた。私は合計17ルピーで空港からサダルストリート、そしてパラゴンに到着したのである。

 

一日でパラゴンの中でたくさんの出会いがあり、10人ぐらいの旅行者と会話を楽しんだ。スイス人、ドイツ人、もちろん日本人にも会うことができて、日本人4人で食事にも出かけた。寝る前、歯を磨くとき、自分の顔があまりにも違うのに驚いた。3割ぐらいインド人化している、こけているのだ。私はここ50時間、特にインドのムンバイ空港からパラゴンを目指した苦労から、人生で最も苦労した一日であったかもしれないなと改めて思うのであった。経験したことのないような暑さで、生命の危機を感じた。

 

最初は辛いであろうと想像した、パラゴンドミトリー生活であったが、一晩明けるとすっかり適応し、まだまだコルカタにいたいかもしれない、そんなことまで考えている自分がいる。自分が精神的に健常でないということが大きいのであるが、私にとってドミトリーに泊まることが一つの挑戦である。しかし、コルカタの暑さと喧騒は、私の思考を奪い、なにも考えられなくしてくれるような気がしている。おそらく前回の中国旅行のように、異国に来てしまえば、私の精神疾患も軽度になることが分かってきた。

友人の言う通り、パラゴンは最高のホテルである、ドミトリーに自分が最高の気分で泊まれるというのは、日本では考えられないことだ。また、魚好きの私としては、よく手入れされた大きな水槽があるのも、とてえも魅力的だ。皆、出会いや、従業員の態度が悪いことにしか触れないが、私にはホテルパラゴンが確かに伝説の宿として記憶された。

パラゴンに二泊して次の日の晩、チェックアウトをして映画を楽しんでから、ダージリンにむけて出発する。一人の日本人男性と出会い、彼と一緒にダージリンを目指すことにしたためだ、名前はケンさんといった。私はパラゴンでの名残惜しさを隠せず、再び南下しようという思いを強く持った。喧騒と、貧しさと、汚さと、マイナス評価の多いコルカタだが、自分はもっとこの街を知りたいし、求めている。ここ何年かで、唯一自分に戻れた気がした。

つづく

 

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インド 旅行記1

なぜ呼ばれたのか その答えを求めて・・・

8.MAY.2010 出国

慣れない搭乗手続きを終え、いよいよその時がくる。

前回苦戦し、カッターなどのいくつかの物品を奪われたセキュリティーチェックも、今日はスムーズに運んだ。人並みの物と、水彩画の道具、余っている全ての精神安定剤を持って、まずはインド最大の都市であるムンバイへと飛ぶ、目指す場所はコルカタである。

大阪の街が見える、再び日本に帰る時が一カ月以上先で、帰ってすぐになにかにとりかかれれば、この旅は成功したといっていいかな、そんなことを基準として考えていた。しばらく日本から逃げられる安堵感と、少しの不安をかかえている。実際に飛び立つ前まではとても不安だった、それが今は開放感の方が強く感じられて、自分のDNAに確かに放浪遺伝子があることを感じた。

高松の街、そして先日登った讃岐富士が見える。丸亀の街も、瀬戸内の線路も、思えばあの上で、空の旅を思ったのだ。日本の地図をぼんやりと描きながら、自分は確かに26年間生きてきたのだ、そんなことを思った。

途中、香港を経由することになっていたらしい、ここまで約3時間、時差も考えてみると10時間もかかるのかと嫌になる。もうあまり日本人はいないようだ。おそらくインド人が3割、中国人が6割といったところか、基本的に席はすいていて、私の隣は空席であるので、私はそれに甘えて荷物を置きっぱなしである。スムーズにパラゴンに着けるか、まずはそこがこの旅の陰陽を占う第一歩であろう。何が起こるかわからない、その時々の環境に適応することである。

 

香港から若者が私の横の席に乗ってきた。

「ハーイ」

と彼、中国人特有の親しみやすさである、とりあえずまともな人で安心した。彼は英語が堪能で、私の幼稚な英語に合わせて会話をしてくれる。話を聞くと、彼は北京の出身でムンバイには仕事へいくのだという。北京からは間に合わず、香港まで出てきたらしい、ムンバイからの目的地はジャイプルだそうだ。

残りのフライトも4時間を残して、機内が暑くなってきた、それにしても関空を出て10時間以上も機内に閉じ込められたままである。これからもう一度降りてムンバイ、そして朝からコルカタ行きの国内線に乗り換えると思うとぞっとする思いだ。暑さと、不安で眠気は全くないので、私は空港で眠ることになるのだろうか。色々読んだりして時間をつぶそうと思う。次回もし、中国以外の国に行くときは、和英辞書が必須だなと感じていた、コンパクトな英和・和英でもいいが、和英は絶対にいる。この思いは毎日のようにぶりかえすことになる。

とうとう一睡もできないまま、14時間以上いもおよぶフライトを終えようとしている、機内食も3回(日本式、チキンカレー、ベジカレー)を数えた。最初にインド式を選ばなくて良かった、香港とデリーではチキンカレーかベジカレーしか選べなかったからだ。

本当に個人旅行はなにがあるか分からない、旅行会社の人に聞いたのだろうが、香港とデリーを経由するなんて気にしていなかったし、実感がなかった。私は、これから降りるムンバイのページを破って日本においてきてしまっていた。少しでも身軽に、軽量化を図るため、南インドと西インドのページをさいて長旅にたえられるように、側面をビニールで固定した。ずいぶんと軽くなり、なかなか良いと我ながら思っていたが、大失敗である。私は国内線乗り継ぎがが大いに不安になった。

とりあえず、無事インドには着いたようだ、あと半日でパラゴン、果たして予定通りいいくのであろうか。私にとっては、唯一の頼れる道しるべである「地球の歩き方」なしにムンバイの空港に着いた。

つづき

 

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別府の”杉の井ホテル”で、棚田に入ってきた。

先日、別府温泉の杉の井ホテルに行ってきた

杉の井ホテルというのは、別府では一番有名なホテルであって知らない人はいない。それどころか、全国でも沖縄にあるホテルについで、宿泊施設では2位という売り上げを誇るらしいホテルである。

今回、実家に帰省した際に、両親がバイキングに興味があるというので行ってきた。

部屋はこの通りで、最高の眺めで、たまたま海側になったのもあり運が良かった。

バイキングは雑誌やサイトに比べて期待外れだった。

種類が多いのはいいが、思ったより品数は少なく、特に美味しいものでもないので量を食べることができなかった。私のようなアラサー世代でも厳しかったのだから、両親などはとてもじゃないけど、また行こうとは思わないという感想だろう。
杉の井ホテルの最大のウリは、バイキングではなく、”棚田”と呼ばれる個性的な露天風呂である。たいして調べもせずにいったのだが、想像以上によくて長い時間たのしむことができた。


昼と夜の景色を堪能して、移り変わる景色を楽しんだが、学生や団体客がたえず騒がしくしているので、家族で行くよりも、団体で訪れるほうが楽しめそうである。

 

泉質は良いらしく、ずっと痛んでいた肩や腕の痛みがすっかり取れてしまったので驚いた。この風呂にはまた入りたいと思う。

魔除けの民芸品”福獅子”

別府のあと、湯布院によって昼食をとったあとに、お土産物屋でおもしろいものを見つけた。

”福獅子”という民芸品で、わずか600円といいう安さである。

なぜこんなものに興味があったかというと、25年ほど前、私がまだ小学校低学年ぐらいのころに、これを買っていて懐かしかったからだ。

 

帰宅してから、20年以上前の福獅子を押入れから引っぱり出してみると驚いた。なんと、びっくりするくらい姿が変わっていた。まるでトヨタのクラウンの形を思い出させるように、角ばった形からずんぐりとした形に変化しているのだ。

      並べてみるとこんな感じで、左が25年まえのものである。そこでネットで調べてみると、もともとは木製であって、その面影が25年前の形に残っているということのようだ。角ばった形のほうが加工しやすいというのもあるかもしれない。しかし、微妙に形が変化し続けており、左のタイプのような形はネットでもなかなか珍しいようだ。

もっと古い木製時代の画像もあった。

これは、さすがに宇宙人のようだ、でも欲しいな~どっかに売ってないだろうか。別府の豊泉堂というところで造られているそうだが、儲けはあるのだろうか、作ることが祈りであるのだろうか。東京に連れてきた新しい福獅子をみて、今日も私は元気をもらっている

 

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