ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなモノ6~ノイバイの夜~

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなもの1

 

Airport View Hotelと近くの食堂、ノイバイの夜

グエンさんが

「コーラは飲みますか」

と勧めてくれたので、私はお願いしたが二ユンさんは断っていた、あまり炭酸が好きではないらしい。コーラは日本と全く同じ味だが、値段は普通サイズの缶で60円位だったと記憶している。

二ユンさんは本当に親切でおせっかいな人である、食事中でも

「お金に余裕があるなら、明日チケットを買ってダナンに行かないか。私たち古いまち案内できる」

としつこく言ってくれた、とてもありがたい申し出だったけど、私にもまた旅の目的があったので断ると、ハノイに住んでいる日本語が話せる人を紹介してくれたのだった。

 

フォーを食べ終わると時刻は23時をまわっており、店内はすでに店じまいの準備を始めていたので、私たちは明日の簡単な打ち合わせをして店を出た。明日は9時頃に起きて一緒に朝食、そのあと空港まで彼女達を送って、私はハノイの中心部にバスで向かうことに決めてホテルで別れた。

部屋に戻るとなんだかホッとした、彼女たちと知りあえて嬉しかったけれど、少し強引なところがあって有難迷惑という気もしていたのだろう、とりあえずバックパックから荷物を全部引っ張り出して、それからゆっくりシャワーを浴び直してすぐに寝ることにした。

寝る前にハノイの地図を眺めながら、今日の日本人同士なら絶対にありえない展開に、私は大陸の可能性と面白さの余韻にしたっていた。当時の私は日野自動車バックレたとはいえ、3年半も厳しいタクシー労働をした後だったし、金も充分とはいえないが持っていたので、明日からの不安もすべてが金の後ろ盾でなんとかなる気がしていたのだろう、空港近くでまだ希望ある夜が更けていった。

 

次の日の朝、ホテルにタクシーを手配してもらうと、隣の店でまた3人でフォーを食べた。朝のフォーはとても美味しく、思ったより寒いハノイの朝にはちょうどよく身体になじんだ、私は今ベトナムにいるんだなと感じることができた。

二ユンさんから、ハノイ市内で日本語教師をしている女性ベトナム人を紹介してもらい、lineを送ってくださいということだが、相手は迷惑に感じているんじゃないだろうか、二ユンさんのおせっかいに半ばあきれながらも礼を言った。

ホテルに戻るとすぐにタクシーが来て空港へと戻った、2人ともこれからフライトだから落ち着かない様子だったが、それでも二ユンさんが私を気遣って市内行きのバスを探し、なおかつバスに乗りそうなベトナム人男性をつかまえて、私のことをなにやら頼んでいるようだった。

度を過ぎたおせっかいであるが、こんな人はもう人生で出会えないだろうなと思った、バス停で二ユンさんと別れる時には心からありがたいと思い、丁寧にお礼をいって別れた。

 

この旅行記はここで終わろうと思う、何と言えば良いものだろう、この旅のハイライトは空港ということなのだろう。しかしハノイ旅行記に6記事も書くつもりはなかったのだが、現在のベトナムを伝えたくてつい書いてしまった。

2人との交流については今後またいつか触れる時があるだろう。

 

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなモノ5~初めてのフォーの味~

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなもの1

 

ノイバイ国際空港Airport View Hotelと初めてのフォー

彼女らは私にタクシー代を請求しなかった、ただ

「明日はあなたが払う、分かるか」

とだけ言ったので、私は分かったとだけ頷いた。

とりあえず小さなホテルに入って自分の受付をする、DeNAトラベルで予約していたプリントを見せると、合点がいったのかすぐに部屋に案内された。

ベトナム人の彼女達2人も部屋があるらしく、値段も手頃なのでここで決めるということだ。共に二階に上がりそれぞれの部屋に案内されたが、すぐに二ユンさんから

「フォーを食べに行きます、あなた今からシャワーを浴びるね、私たちも浴びるので20分後に部屋の前ね、分かる」

と言われ、なんとなく今から焦ってシャワーを浴びてしまうと二度手間になるなと思いながらも、私はしぶしぶ頷いた。

私は風呂やシャワーはゆっくりしたい方なので、彼女たちはご飯を食べてからはもうシャワーは浴びないのだろうかと考えながら、自分もそうしようと考えて石鹸などを出してみたもののお湯が全く出ない、私は急いで服を着てフロントに駆け込んだがお湯が出る様子はなく

「テンミニッツ」

と言われ、10分待てということだ。

そうこうしているともう2人が入れ替わりでシャワーを浴びたのだろう。

「行けますか」

と部屋の前から声がかかるので、それを少し待ってもらい慌てながら私はぬるいお湯をただ全身にまとうと、急いで着替えを済ませて部屋の前に出た。

2人は非常にラフな格好をしていた、二ユンさんは上下スエットのような感じ、グエンさんは、モスグリーンの薄手のコートで下半身までカバーしている感じだ。

ハノイは思ったよりは肌寒くて、私は日本からきていたものをそのまま着ていたのだろうか。あまり記憶に残っていないがグエンさんがずっと

「寒い」

といっていたのを覚えているので、その訴えが不自然ではないくらいの気温だったのだろう。

ホテルのすぐ横に、まるで申しあわせたかのようにフォーを出す小さな食堂があるので、3人でそこに入ると、彼女たちはベトナム語でなにかやりやりとりをして、もう店じまい前だけどノーマルなフォーならあるということらしい。

店は日本では決してみられないようなチープさと古さを醸し出しているが、2人も日本慣れしてしまったのか

「汚いです、汚い」

といって私のスプーンや小皿をテッシュでふきながら、ホテルが日本に比べて汚いと嘆いている。

彼女らはベトナムで生まれ、ベトナムに満足できずに先進国である日本に来ている人間である、国際空港から500mしか距離がない場所での、この不衛生さとカオスが香るベトナムという国に少し安堵感を覚える自分とは、感じ方が全く逆なのも自然なことなのかもしれないなと思った。

2人からベトナム人はよく食べるけど、日本人はあまり食べないなどという話をしているとオーソドオックスな牛肉のフォーが来た。

私は日本でもフォーというものを全く食べたことがなかったし、あまり食べ物に興味がないので、少しの時間かたまってしまったが、ベトナム人の二人は慣れた手つきで小皿からライムを絞り、調味料で味を調整していく、何種類の香辛料や野菜が入っただろうか。タイやベトナムの麺類は、客が好みに合わせて味を調整するのが当然と本に書かれてあったがあれは本当だったのだと思いながらも、胡椒か七味ぐらいで良しとする日本とは違ってずいぶん面倒な国だなとも感じたが、それだけ食文化にも豊かな一面があるということなのだろう。

なかなか面白い国なのではなにか、私はすでにベトナムを想像通りの途上国として評価しはじめてもいた。

 

フォーの味はどこか物足りず、それでいて懐かしさも感じないものだった。もっとも初めて食べたものに懐かしさなど求める方がおかしいのかもしれないが、単純な味にはどこか懐かしさを求めてしまう。

普通の日本の若者なら物足りないと感じて、美味しいとは思わない人も多いだろうが、私はフォーをそれなりに評価した。なにより100円~という値段が嬉しいし、野菜も日本の麺類よりは摂れそうである、外食が基本と言われる東南アジアおいては、これぐらい塩気がない方が体に優しいだろうし、ベトナムが先進国のアメリカよりも平均寿命が長いという事実も頷ける。

つづき

 

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなモノ4~途上国の貧しさの中で~

ベトナム、発展途上国の定めと先進国

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなもの1

少し旅行記から外れて、その後のグエンさんとの交流を書こうと思う。

 

ベトナム女性、グエンさんとのラインでのやり取り

グエンさん

「(*’ω’*)あなたはげんきですか」

クニヤメ

「元気です。おひさしぶりです。げんきですか」

グエンさん

「げんきです、ありがとうね。あなたの仕事はいいいですか、ベトナムに戻りますか」

クニヤメ

「しごとよくないよ、ないよ。ベトナムでさがしたけどダメだった。うまくいかない」

グエンさん

「はい、わかりました」

 

数日後

 

グエンさん

「きょうはやすみですか」

クニヤメ

「?

まだはたらいてないから、しごとさがしてるから。だからやすみね」

 

などという不毛なやり取りをしている、どこまで日本語を理解しているのかはハッキリしないところだが、よくlineでも笑ってごまかすので、6割程度といったところだろうか。

 

発展途上国ベトナムと日本

たまたま株式投資でベトナムに興味をもってから、書籍やネットで色々な情報をとってきたが、それだけでは今ほどベトナムについて考えることはなかっただろう。やはり今の自分がベトナムを知ろうとするのはベトナム人の知人を得たことや、実際に接したことが大きいと思う。

知人となったベトナム人女性の一人であるグエンさんとは、lineを通してやりとりができるので連絡をとりあうようになった(二ユンさんはlineがないらしい)。日本に訪れる外国人研修生のほとんどがそうであるのかは分からないが、彼女はお金を欲しており、再び日本に来たくてたまらないらしい。

なんでそんなに来たいのか、それほどまでに金が欲しいのか、自分としてはひたすら金を求めているようであまりいい気はしない、それとも先進国への憧れなのだろうかと気になって一度聞いてみたことがある。

その時にグエンさんからの返事は私に強い印象を残し続けている、それは

「お金が必要です、日本で働けば家族や兄弟を助けることができる」

という言葉であった。

現代の日本において、兄弟のためにお金を稼いでいる人がどこにいるというのだろう、しかし彼女は当たり前のように私にそういって見せたのだ。

私は正直驚きを隠せなかった、まるで前回の朝ドラである『ひよっこ』の世界ではないか、グエンさんがヒロインの姿に重なって見えた。

 

ベトナムは貧しい、そして高い給料がもらえる仕事もないし、多くの子供たちが貧しさの中で労働力として働いているのだろう。それに比べて日本は豊かで、私のように無職で一年困らずに生活できたり、親世代の豊かな経済力を頼ってパラサイトをすることもできる。

日本はお金をもって全てを得たのだろうか、ベトナムはこれから何を得て、なにを失っていくのだろう。中国やベトナムを訪ねると、日本が失ったものがたくさん残っていて考えさせられる、それらは貧しく混沌として、非効率なものである。

しかしどこか慈愛に満ち、なぜか心がウキウキとして元気になるのは私だけだろうか。

ベトナム人と結婚した人の話では、一族の仲間意識が強すぎて嫁さんの本当の姉妹や兄弟が分かるには数年かかるという。そんなベトナムには、どうかベトナムには日本と違った角度での発展を少しでも見せてほしいものである。

つづき

 

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなモノ3~ノイバイ国際空港~

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなもの1

 

ハノイ到着

ノイバイ国際空港

出国すると空港内で彼女らを出迎える人が2,3人ある、といっても家族ではなくてベトナム当局関係者の人達といえばいいのだろうか、日本への派遣を斡旋している人たちであろう。

男たちは笑みを浮かべながら彼女らを迎える、部外者の日本人である私はただただおろおろしているばかりだが、不思議と二ユンさん以外の人達の目には私は映っていないかのようだ。私が猿の様に落ち着かずに辺りをうろついていると

「あなたここにいる、分かったか。私たち、今から少し時間かかる」

そういうと隅の方に待機しているように言われ誘導される、私はなんだかスーパーの前で主人の帰りを待っているペットのような気分で、彼女らのイベントが終わるのを待った。

彼女ら帰国した5人がねぎらいを受けると今度は写真撮影が始まった、二ユンさんに後から聞いた話だが、皆出身はバラバラで3人はここハノイ近郊の北部、自分も含めた2人は中部の都市ダナン近郊であるということで、これが今生の別れでもう会うこともないのかもしれない。

写真を撮り終えると男たちはどこかへ行ってしまった、あるいはハノイ近郊の3名を送るのかもしれない。彼女らのバカでかい1年分の荷物をターンテーブルで受け取るとようやく空港を出る、おそらく時刻はもう22時を過ぎていた。なんとなく二ユンさんから皆の情報を聞いたが、男性1人と女性2人のハノイ組については会話する時間もあまりなく、多くのことを知ることなく別れた。

二ユンさんと、もう一人のベトナム人女性は、今日は空港付近で一泊をし、明日の飛行機でダナンに発つそうだ。

もう一人の女性はグエンさんといって齢はやはり23であるという、ほっそりとした手足をもつベトナム人らしいスタイルの女性で、美人であるかは好みの分かれるところだろうが、なかなか素朴でかわいらしいところがある。とても年下とは思えないしっかりしたところがある二ユンさんとは違って、まぁどこにでもいるような女の子なのだろう。

私は空港近くにホテルを予約してあるが、彼女達はホテルを決めていないという、まず彼女らのホテルを確保しようということになったのだが、これになぜ私が参加しているのかがよく分からない。これもすべては二ユンさんの信じられないようなおせっかいと、頭の回転の速さ、人柄などの人徳にほかならず、その彼女の性格は私の人生をも左右したかもしれないと、この日のことを思い出すとそう考えてしまうほどの珍しい出会いであった。

空港に夜遅く到着予定ということで、私はノイバイ国際空港にごく近いエアーポートビューホテルというところに予約を入れていた。私がそのことを話すと、彼女らはとりあえずそこへ送ってくれて、部屋が空いていればそこに泊まると言い出した。この申しでに少し戸惑いつつも、彼女らも慣れない土地で行き場がないのである、私は特に断る理由はなかったのでいわれるまま3人でタクシーに乗りこんだ。

彼女らも頑張って料金交渉をしてくれたようであるが、ベトナムうぃ~にしてはかなり高い料金をとられたようだ、それはそうだろうなとは思う、空港で待っていて短距離はたまったものではない。私も3年半タクシードライバーをやっていたのでよく分かっているけども、日本のドライバーは交渉などできないし、断ることもできない。空港駐車場と言われようが、国際線から国内線ターミナルといわれようが乗せる、それが先進国の良さでありまた、悲しみであろう。

ボロボロのタクシーが、こちらも舗装されていない真っ暗な路地で停止すると、小さな古びた建物に、『Airport View Hotel』というレトロなネオンが光っていた。

つづき

 

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなもの2

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなもの1

 

ベトナムを想う

みなさんはベトナムについてどういう印象をお持ちだろうか。

私は去年までベトナムについてなど全く知らなかった、だから大方の人と同じ見立てであろう、とにかく貧乏でダサくて、ベトナム戦争をやっていた国という印象であった、そしてそれはだいたい正しい。

実際にベトナムを訪れ、本を読んだ限りでは、ベトナムの物価はとにかく安くて、農耕民族で上手く階層社会が造れなかったことから絢爛豪華な文化をあまり産まなかったし、なによりベトナム戦争だけではなくて、知れば知るほど戦争ばかりやっていた国なのだ。

フランス、アメリカ、カンボジア、内戦ともうどうしょーもないほど何十年も血を流し続けており、それに比べれば日本とはなんと短い戦争期間だったことかと思わずにはいられない。

しかし、平均年齢が30歳に満たないと言われるベトナムにおいては、戦争は過去のものになりつつあり、ベトナム戦争など昔話になりつつあるようだ。

そんなことより、家族に良い暮らしをさせたいという若者のエネルギーは凄まじいものがあり、ベトナムは変貌しつつある。

 

機内にて

私は三人掛けの椅子の通路側に座っている、隣にはスーツケースをあげてやったベトナム人の若い女性、窓際は違う第三者のようだった。

スーツケースをあげてはやったものの、私は気軽に人に声などはかけれないので黙っていた。そもそもどこの国の人なのか分からないし、母語もわからない、ベトナム語だとしたら私には手も足も出せない。もっとも、なんとなく日本語のようなものを交わしたような気がするので、もしかしたら日本から帰国する労働者なのかなと思った。

うつろな記憶ではあるが、ベトナムに到着というころになって再び私は女性と会話をしていた。おそらくまたスーツケースを頼まれたりしたのだろうか、それで彼女が日本語がある程度話せるベトナム人の労働者研修生なのかなということも分かった。

ハノイのノイバイ国際空港に到着し、飛行機が止まったころになって彼女らが団体で実は後ろの席に友人がいることが分かる、そしてなぜだか

「あなたご飯食べますか、私達と一緒に、フォー食べる」

みたいなことを言われた。なんか変なことになってきたな~とは思ったのだが、私は初めての国で言葉が通じないということで不安度は相当なものだったから、喜んでついていくことにした。

彼女の知り合いは、彼女も含めて5人で男性は1人だけだ。外国人である私は、出国の手続きがすぐに終わってしまって、とりあえず出口で彼女らをまった。時刻がすでに22時近くで、あらかじめ予約を入れていたホテルなどのことが気になったが、もう焦っても仕方ないと腹をくくった。

彼女は二ユンさんといって、小柄でずんぐりとしており、お世辞にもきれいだとは言えない。年齢は23歳だったろうか、これも30歳といわれれば納得してしまいそうなところはある。

私はまだ二ユンさんとしかほとんど話をしていないので、他のメンバーからするとあの日本人はなに者だと思われているに違いないと思うと、なんとも居心地は悪かった。人生でもあまり経験がないケースだ。

彼女らが出国を終えて合流すると、なんとなく彼女が私について説明してくれているようだ、ベトナム語ができないから助けてやろうと思っているとか、おそらくそんな感じなのかもしれない。私はついさきほど出会ったベトナム人と、その後半日以上も行動を共にすることになる。

つづき

 

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ベトナム(ハノイ)、旅行記のようなもの1

ベトナム、そのうぃ~なるもの

私は時々、変なラインのやりとりをすることをせまられる。

 

例えばこんな感じだ

あなた、今何をしている

^-^

はをみがいている

終わったか。

 

うん、おわった。

いつ二ホンくるの?

 

こない。

さびしいです。

二ホンだいすきですでもVISAがない。

 

👆のようなやりとりをラインでしていることが多い。

 

ライン友達はベトナム人

私とラインをやり取りしてくれる友人はベトナム人の方が多くて3人いる、3人とも女性であるが美人ではない。いわゆるバーなどで働いているプロではなくて、けっこうレアなケースだと思う。

ベトナム旅行で出会ったんだけど、今回はそんな出会いも含めて、ベトナムについての体験などを踏まえながら旅行記のようなものを書いてみたい。

 

ベトナム、旅行記のようなもの

記憶を掘り起こしてみたい、昨年11月のことである。私はいくつかの目的を果たすためにハノイに飛ぶことを決意する。渡越の最重要目的は、ベトナムの首都であるハノイに行ってベトナムの暮らしぶりを視察してくることであった。物価の安い外国でなんとか生きてはいけないものか、そんなことが可能かどうか、それを見極めるための渡越だった。

10月に辞めたタクシー会社が自己都合とならぬようにと働いた、日野自動車期間工を早々にバックレてしまった私は、自信を喪失しながらもまだ今のように追い詰められた感情はなかった、私の通帳には400万円の自由にできる金が残っていたからだ。

私の心に悲壮感はなかったように思う、バックレていい気分などしなかったけど金が私のすべてを支えていたのだ。今でも当時の記憶をたどると、その時はまっていて今でもよく聴くプリンスの曲が蘇る、これからどこに行こうか、なにをしようか、そんな希望が私の不安よりも大きくあふれていた。

たまたま11月の観光オフシーズンということもあって、3万円強という破格の往復航空券でハノイに発つことになった。

 

ベトナムへ

出発の日は雨だった、成田までのバスを待っている間にケータイの充電器など忘れてきたものを補充したことを覚えている、その間まだ株式トレーダー志望だった私は、スマホで頻繁に取引を行っていた。

吉祥寺から高速バスで成田空港へ、そして無事に登場してまずはマカオに飛ぶ。

マカオ航空の破格の航空券は、もちろん直通ではなくてマカオで乗り換えをする必要があったが、その乗り換えが曲者で、なんとわずか40分しかなかった。マカオ~ハノイ間の航空機に乗る前ではそのことばかりを心配していたが、空港従業員のドタバタな手を借りながら、なんとか乗り継ぐことができた、本当にギリギリの乗り継ぎである。

 

ベトナム労働者との出会い

私は隣の席の人に気軽に話しかけるような人間ではないが、アジアではそうもいかなくなることがある。この日も成田~マカオ間で大陸アジア人うぃ~のアバウトな精神が炸裂!私の端席(5列並び)が母娘に奪われそうになったが、

「ノー!!」

という奇声をあげてなんとか死守することができた。悲しい顔をして楽な席と交換してくれという母と幼い娘、きっと悪い人間ではないのだろうが、冷たいやつと思われているのが目つきで分かった。

勘違いされては困る、私は自分の番号通りの席に座ったのだ、しかしそれが通用しないのがまたアジアうぃ~の世界でもあるのだ。

 

マカオ~ハノイ間の機内では、幸い席を脅かされることはなかったし、私はまたしても通路側の席であったから落ち着いて到着を待つのみであった。

搭乗してすぐの時、私の横に座る人がずいぶん大きな荷物をもって通路で途方に暮れそうな雰囲気を感じた私は、すぐに

「オッケーオッケー」

といいながら巨大なトランクケースを上げてやったのだが、今思えばこのことが後々にまでつながっていく交流のきっかけとなったのかもしれない。

 

つづき

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インド旅行記~2016年バラナシ~

 

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インド旅行記~2016年バラナシ~

全く写真以外は記録してなかったと思われた、2016年のバラナシへの旅の記録が見つかった。

まったく記憶にないが(ボケがきてる(・・?)、旅行中に書いたのだろう、メモ帳から見つかったのでそのまま載せておく。

3人旅です。


インド、ヴァーラーナシーへ

ようやく呼ばれたということになろうか、ここだけは絶対行っておきたいという場所、地球上の最重要地であろうと思う。

新幹線で大阪へ、仲間と合流してから、丸一日かけてバラナシへ

すぐに念願の久美子ハウス


意外にも人が多く、ドミトリーはほぼ満室、

友人がベッドを譲ってくれて真ん中のベッドへ
明日のガンガーに備えて体を休めた。

朝4時半に集合してガンガーへ

朝日で少し感動すると、どうもここで求めていた感動はない、自分が何を求めているのか、何に心を動かされるのか、それを求める旅だったように思う。

 

 

ホテルを次々と変わっていくことになったが、それはそれでよい経験になった。

クミコで沈没とはいかなかったけれど・・・。

パレスオンステップで体調は最悪となり、あとは帰りを待つのみとなってしまう、それどころか無事に帰れるかもあやぶまれていた。

友人が相談に行ったところ、ガンガーフジホームに医者がくることになり、なんとも高額なお金を払うことになると思われたが、1500ルピー程度だった。

今帰国を前にして、残念ながらバラナシを満喫したとはいえない。

非常に苦い心境もあるが、同時にバラナシに行けた、行かないでは死ねないところが、これでもうなくなったという安堵感が広がっている。

 

焼けていく死体、

無数の犬と牛、子供の笑顔、

それらを自分の糧とし、

また力強く生きていくことが、私はできるだろうか。


野良牛もいっぱい

 

 

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求める旅=人生のカタチ

あぁ旅に出たい、でもお金ない

どこかに出かけたくて、放浪したくてうずうずしています。

お金はないんだけど、今年はいかなければいけないような気がする。無理していけば、なにかが見えるような旅になる気がする。

私の根拠のない自信はけっこうあたることが多いです。

たまに、絶対無理だと思うことでも、最初に確信してその通りになったことが人生でもありました。

ただし、確信できることは人生に数回だとは思いますけど、2010年インド旅行の前でもそれは起こりました。

私の予想は

  • 人との出会いではない

  • その出来事によって人生は変わらない

  • しかし衝撃を受ける出来事である

ビジョンが確定すれば、あとは運命に向かえば自然と当たってしまう、そこに起きなかったらどうしようという不安はないんですよね。ああ、起こってしまうんだなという気持ちです。

結果は、仏教最大の聖地であるブッダガヤーで釈迦の誕生日を迎え、全く知らなかったのに、仏教徒が世界中から集まり、数万人規模のイベントを目撃する

ことで幕を終えました、このことだったのか。だから呼ばれたのか、と納得できた瞬間でした。

アジア中から、旗を持った僧侶たちが、歩いて四方八方からマハボディー寺院に向かってくるのは荘厳の一言でした。

マハボディー寺院は石組みで、日本のお寺の方が厳かだと思われるかもしれませんが、鳥居のもととなったトーラナを備え、比較できない歴史の長さがあります。私が目撃した、人生最大のイベントでしたね、日本のものなんて全てインドがもとになっている新しいものです、とインド人に笑われました。

今回見えているビジョンは、人との出会いに関係があるような気もします。

しかし、まだ少し薄いですね、今後の自分の感性に注視したいです、なにかが起ころうとしている、そんな気はしています。

旅の目的地を考える

もっぱら現在の私の関心ごとは、

自分が旅に何を求めているのかということです

旅と人生はイコール

で例えられることが多いので、それが分かれば生き方までもみえてくると考えています。

・中国、韓国

(ソウル、北京、呼和浩特、銀川、蘭州、西安、上海)

・インド

コルカタ、ダージリン、ガントーク、ブッダガヤー、デリー)

・シルクロード

(上海、敦煌、トルファン、ウルムチ)

・インド再び

バラナシ

・ベトナム 、中国

(ハノイ、雲南省)

これらの旅の記憶から、思い出深い都市を上げてみると

ベスト3は

  1. コルカタ

  2. 敦煌

  3. ブッダガヤー

となった。

この3つの都市の特徴から、私が求めえているものを考えてみます。

自分が思い描いているものと、本当に求めているもの

自分の理想とする旅の漠然とした姿がある、街並みがきれいで、どこかこじゃれていて、刺激に満ちているような場所だけど、本当に良かったと思えた場所は違うんじゃないか。3つの都市をみるとそう思ってしまう。

バラナシについては、体調が悪かったために四大聖地サールナートにも行けなかったし、評価しにくいところではある。

ずば抜けてよかったのが、コルカタ。最も期待外れで他人とのかい離を感じたダージリン

期待していたダージリン

ダージリンにはすごく期待をしていた、ネパールにも近く聖なるヒマラヤを身近に感じることができるからだ。私は山の中で育ったために、世界一の山脈と、そこに作られたリゾート都市に向かったのだが、結果的には良さが入ってこなかった。記憶に残っているのは食事ぐらいで、あとはコルカタの方が断然良かったが、行動を共にした人ではダージリン人気は高かった。

コルカタのなにが良かったのだろうか

おそらくそうだろうなと考えるのが“死にたい”と思っている人はブログをはじめてみようでも触れた、幸福とは誰かとなにかを分かちあうことだという点ではないかと考えている。

コルカタは旅人の出会いの街だ、ネパールやダージリンを目指す人、東から来た人、西から来た人、マザーテレサの家でボランティアをしている人、長期滞在している人、などなどいろんな目的で滞在している人がいる。とくにマザーテレサの家の存在が大きい、看護師や修道士などが専門職として日本からボランティアに来て、旅人と同じ宿に宿泊している、そこで色んな立場の日本人と話すのはとても刺激的だ。

初めて一人旅で訪ねた街

なので、思い出深いというのもあるのかもしれない、実際、後半戦で訪れた旅は、どこか寂しさのような印象が残っており、候補には上げにくかった。

しかし、たまたまのことなのかもしれない。

漠然としたイメージを頭の中で整理すると、

これといった場所があった

  1. ホテルパラゴン”(コルカタ)

  2. 莫高窟(敦煌)

  3. マハボーディー寺院(ブッダガヤー)

という、これといった見せ場を抱えていたというのも大きいのかもしれない。見せ場は一つじゃないと、西安とかトルファンみたいにいくつもあると、ありがたみがないし、気軽に徒歩で行けるようなマハボーディー寺院のような場所が望ましいかな。

私の場合、バラナシや、ダージリンのように町全体が見せ場というよりは、普通の安宿街に泊まって、街に超有名スポットがあるというシュチュエーションなのかと思う。

そういう意味では、カンボジアのアンコールワットとかいいんじゃないか、これは全然候補にはあがっていなかったけど、いいんじゃないのか。

そういう意味では、今興味のあるインドのジャイサルメールの城壁もいいだろう。宿街から徒歩で行けそうだ、ネパールは、ダージリンやバラナシなどのリゾート型に近い気がする。

答えは、出会いのための安宿街、身近にあるスポット

ということができるかもしれない。出会いは水物であもあるので、ある程度の旅人街があって、有名スポットがある場所には行ってみる価値がありそうだということが分かったのは大きな収穫だと思う。

一番は実際に行ってみることで、無形のものはたくさん得られる

だから、いつも旅には憧れてしまうのだ。

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インド旅行記~あとがき~

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2010年、インド旅行記

あとがき

2010年の、単身インド旅行記のブログへの書きおこしがすべて終わった。

これは、必死の覚悟で初めて海外一人旅をした私が、その生きざまの記録として残したものだ。

リアルタイムでの執筆は一人旅ならではのものだが、それでも完全に旅行中に書くのは珍しく、珍しい旅行者だったと思う。

旅行中に描くのはせいぜいメモや計画程度のもので、絵や文章を真剣に書いている姿を見ることは意外と少ない。

あの有名な沢木耕太郎氏の『深夜特急』シリーズでさえも、あとがきによると、少なくとも数年後に書かれたもので、メモをもとにした記憶が主となっているらしい。

この旅行記は、基本全てリアルタイムで書かれたもので、日本に帰国したその時、すでに9割の執筆を終えていた。およそ2万文字、原稿用紙50枚弱ぐらいだろうか、ちょっとした短編ぐらいのボリュームにはなったようだ。

それだけに、拙いながらもリアルな2010年のインドを少しでも感じていただけたなら、幸いである。

出会ったことのないどなたかが一人でもこの旅行記を読んでいただけたなら、筆者としてはたいへん嬉しいし、おそらく一人ぐらいのその読者に心よりお礼をいいたい。

 

当時の私の背景

2010年当時、インドに向かった私はまだ26歳だった。

現在33歳の自分からみると大変若く感じるが、この時すでにいろんなことにうちのめされ、心療内科を転々としていた私としては、辛く、明日の見えない日々を過ごしていた。今も状況は変わっていないが・・・

 

決死の思い

決死の思いから、尊敬する仏陀を輩出した信仰の国、インドを旅してみたい。

おそらくそんな考えで、インド一人旅を計画し、わざわざ帰国後の生活費をひと月分、滋賀県、南草津のパナソニックで稼いでから、インドの地へと旅立ったのだ。

ニート期間は現在より長い、約10カ月、その間、年末年始のヤマト助手と失業給付だけで生活をつないでいた。

  • 働きたいけど、自信がない
  • 死にたい、消えたい
  • 社会不安障害

など、おそらく今よりは熟成度は低いものの、同じような不安をかかえており、死んでしまいたいという思いはかなり強かった。

あちこち出会った日本人の旅人には、

「ところで僕は死にたいんですが、~さんはどうですか」

みたいなことをいきなり聞いて、かなりの変人と思われていただろうし、実際そんな噂も耳にした。

しかし、そんな当時の私の思想すらもインドはやすやすと内包した。

それだけ、インドでは

  • 生きる苦しみを問うこと
  • 生きていく意味を考える
  • 生死に善悪などはない

ことは日常の中に溶け込まれ、言葉さえ交わさなくても分かり合える気がした。

生きることに苦しんでいる群衆の中の、自分という存在を認識するのは、日本ではなかったことのように感じた。日本にある、きらめきや華やかさはインドにはなく、恐れや不安、喧騒といった負の面が、街のあちこちににじんでいた。

隠せない貧困や死、不可解なものが、そこらじゅうに横たわり、金がすべてで、金を持っているものがえらいんだ、そんなメッセージが街を包んでいた。

しかし、金を持っていても人間はいつか死ぬ存在だ、それを忘れないように考えよ、そういわれている気もした。それだけに時折、五感を通して感じられる生の感覚は、たとえようもなく美しく、またたく旋律となって私の胸をうっていった。

 

人生で最も苦労した日

私が人生で最も苦労した日を1日上げよといわれれば、間違いなくインド旅行記2にある、インド初日で、空港からホテルパラゴンに移動した日と答える。人生においては人並みに苦労もあったような私であると思うのだが、やはりこの日を上げぬわけにはいかないのだ。

ベスト10を挙げよといわれても、旅行の日が入るのはこの一日だけだと思う。しかし、初めての一人旅がインドで、観光地でない生の街並みを何時間も、10キロ以上も歩いた経験は、やはり1位にあげなければならないだろう。

特にメトロ、ダムダム駅の中でみたうごめく群衆、土日は地下鉄でさえも午前は運休というシステム、などには衝撃を受けた。駅の中には腰布一つ身につけてもいないような家族が、真っ暗な中で、寝ているのか死んでいるのかわからないが、何人も横たわっていた。

そのビジョンを思い出すたびに、私は最近固まりつつある一つの思想、死は解放である、ということを思わずにはいられない。

40度に近い気温、明け方の4時になっても27度以上ある眠れないほどの熱さ、ただただ生きることが、存在することが辛かった。

 

記録をすることの大切さ

過去の自分にもしアドバイスができるなら、自分は真っ先に、文章で記録をとりなさいということを進める。

それは簡単な日記などではなくて、めんどくさい、人前に出してもいいような量と質を担保したものを、残していきなさい

と答えると思う。要約すると、ブログをつけなさいでいいのかもしれない。

それと同時に、この旅行記を残した過去の自分に感謝したい。なんの得にもならないようなこの文章を残していたお陰で、言葉では表現できない喜びをたくさんもらうことができた。

そして、重要なことはその価値が、年々倍増していくようなのだ。この旅行記にしても、丁寧に手書きで文庫におこしたものを捨てようとしたことさえあったぐらいだが、今では自分の宝物にまでなっている。

 

新たな旅立ちの時

年内は無理かもしれない、けれど2018年には、旅人の部分を前面にだしていければと考えている。

そのためには、ブログの充実を計画通り2000記事以上に積み上げ、サイトの強化、増殖を適切に行っていく。

私はブロガーになる適正はないのかもしれない。

ブログを通して、人とコミュニケーションをとることも、今後あまりできそうにないし、一方的な発信だけにとどまってしまいそうだ。私の感性にはそれがあっていると思うし、それを受け入れて、自分なりの活動を展開したい。

自分の活動が誰かの役に立つとき、自分の道も開けると思うので、このブログを通して、一年かけて考え、実践していきたい。

 

インド旅行記 1

 

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インド旅行記10

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-空港-

夕方4時まで、時間をつぶしてタクシーと交渉開始、350ルピーで空港へ、6時間前には着いてしまった。

7時まで時間をつぶして搭乗手続きへ、しかしそれからが悪夢の始まりだった、予定の11時になっても飛行機の到着がないようで、そのまま空港で一夜を明かすことになる。香港経由の便であったため、情報は混乱しており、主に香港に行きたい客が職員にくってかかる。手配されたホテルに大方の人は移動したようだったが、私と日本人男性2人と、日本人女性1人の計4人は、どういうわけか特別バスに誘導してもらうことができずに、そのまま空港に残ることになる。

空港で朝をむかえ、次のフライトは9時5分予定である、4人とも、固い椅子で1,2時間眠るのが精一杯であった。6時過ぎの手続き開始で、いよいよ移動できると期待しながら9時前の搭乗を待つが、いつまでたっても係員がゲートに出てこないし、フライト予定も少しずつ遅くなっていく。もう空港に到着してから24時間が経とうとしており、私達の疲労は濃くなっていたが、咳が治まっていたのが救いだった。
同じく空港で一緒に行動していたメンバーの内、ウルドゥー語を学んでいる学生と建築を勉強中の女性を、混乱の中見失ってしまう。2人とも学生で、とても急いでいたので救済用の香港便に乗ったのかと思われた。残された私と中年男性はどうしてもタダで帰りたいと執念を燃やしていたので、ここを動くわけにはいかない。

長い時間がかかり、ツアー添乗員の圧力などから、ようやくエアーインディアが保障に動き出す。売店で食事をとらせてくれて、ほどなくバス送迎でホテルまで移動したが、予想を上回る高級ホテルであった。

セントールというホテルで、私の一週間分の予算に相当する、一泊6000ルピーという四つ星ホテルである。

一人ずつ、シングルルームが与えられる、私は風呂を入れて一週間分の垢を流し、足を伸ばして仮眠した。とても眠かったし、いつ日本に戻れるのかという不安はすでにグルリと一回転して、もう流れに任せようという気持ちである。

目が覚めてから、ランチやディナーを楽しんだ、まるでタイタニックの映画のようなレストランとエントランス、私はある意味ラッキーだなと感じてもいた。体調はすっかり良くなっていたが、依然として情報が入らず、皆不安をかかえている。特に一人でツアー客の責任を一身に背負った添乗員の男性は、疲労の色を濃くしていった。

そんな中、夜9時頃にバスが到着し、突然の進展である。空港の中に入れてもらえないというトラブルはあったものの、最後はガラガラの飛行機に無事搭乗、今度こそ間違いない、日本に帰れるのだ。思いもかけず空港で足止めをくらってしまったが、貴重な経験もできたし、いろんな出会いがあったのでプラスに受けとめたい。

 

-3.JUN.2010 帰国-

目が覚めると、一瞬どこにいるのか分からなかった。

そうだ、飛行機の中だと気づいた時には、香港に着くというアナウンスが流れる、機内食を食べてからすぐに眠ってしまい、あっという間の5時間で、全く記憶がなく気持ち悪くさえ感じた。香港についてからは、空港の職員が迅速な対応をみせて、すぐに大阪行きの飛行機に乗り換えることができた、あまりの対応の差に、皆インドはこりごりという雰囲気だ。大阪に着くまでの間、もう眠ることはできず、機内にある音楽を聴いて過ごす、目前にせまっているワールドカップに思いをはせていた。

ゆっくり、ゆっくりと飛行機が止まる、大阪に戻ってきた、日本である。

安堵感と、ちょっぴり切ない気持ちをひきずりながら、両替を済ませた私は、京都行のバスに乗り込んだ。自分とインドに感謝したい、この旅に出られたことで色んな選択が変わっていくことだろう。

 

あとがき

インド旅行記 1

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