満州記。一歩兵の太平洋戦争、支那事変の記録。奉天(瀋陽)、大連、新京(長春)、虎林。

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※これは2018年1月、初めて中国(吉林省)に赴任する前に書いた記事ですが、少しの訂正を加えて再投稿させていただきます。

若き日の祖父の写真である。

私を知る人なら私と瓜二つの顔に驚きを隠せないはずだ、多分色をつけて私の写真に混ぜていても、本人でも全く気付かないレベルである。

高校生の時に80代で亡くなった時は、そんなに似ているという感じなかったので、これは驚きであった。

今回、元満州に行く可能性が高いということで、実家で同居していた祖父の、太平洋戦争中の記録をまとめて資料を開いてみた。

大日本帝国の一兵士の記録であるが、ブログでアップすることで、誰かのためにはなるのではと思い、祖父の人生を振り返るついでに引用しておく。

一歩兵による太平洋戦争の記録~満州国境守備隊~

~動乱の歴史『我が人生』歴史研究会より引用~

国矢眼 義(仮名)

階級:陸軍伍長[歩兵]

表彰:勲八等旭日章・支那事変従軍記章

年齢:大正五年一二月二四日生

経歴:以下

大連上陸から新京(現在:長春市)へ

昭和13年1月10日。現役兵として小倉歩兵第十四?隊に入隊。間もなく守備隊要員として1月26日門司港を出港、大連上陸後に列車に乗り込み新京郊外寛城子に到着、満州派遣軍独立守備隊に編入となる。

軍人勅諭を精神基盤とした熾烈極まりなき新兵教育が始まる。各個戦闘、銃剣、白兵、射撃、行軍等の猛訓練が行われる。連日連夜にわたり訓練が行われ、上官の靴磨きや宿舎の掃除、寒いというよりも痛さを感じる極寒の中でする洗濯、早朝より始まる銃剣術の猛稽古と一服の暇もない三カ月が過ぎ去る。

一期の検閲を終え奉天に移動、二カ月後、国境守備隊に編入となり虎林へと派遣され、一カ月交替で国境線の警備につく。ウスリー河を挟んで対岸はソ連領となっており、対岸のイマンにはソ連軍の軍隊が駐留、夏の間はソ連軍の小艦艇が往来するのがよく見えていた。短い夏は瞬く間に過ぎ去り、冬将軍が猛威をふるう頃になるとウスリー河は厚い氷が張りつめ、何処が上流か下流かの見分けもつかない程になる。大平原を緩やかに流れる川の中には幾つもの中州ができていた。一触即発の危機はらむソ連軍との間に点在するこの中州に、同郷の出身で同時に小倉?隊より出た仲の良い四名の戦友たちが、張り詰めた氷の上を歩き中州の偵察に出かけたが、河の中央付近で突如としてソ連軍の機関銃を浴び、四名がそろって即死するという大事件が起きた。

↑字が分からないものは〇とした、表現が劇画調になっているところがあり、少しの訂正を加えた。

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奉天(現在:瀋陽市)から虎林へ

奉天というよく出てくる地名は、旧満州の奉天省奉天市というところで、現在の遼寧省の省都で、東北地方最大の都市である瀋陽にあたるらしい。

虎林(フーリン)というのは現在でも黒竜江省にある、ハンカ湖という湖とロシア国境の近くに見つけられる。ウスリー河と言うのは、国境を流れるアムール川の支流の一つであるようだ。

二世代前の祖父が、なんと半世紀以上も前に満州に渡り、赴任する確率の高い四平(スーピン)の近くにいたというのが、時代とはいえ感慨深い。

最低気温-40℃のウスリー河

仲の良い四名の戦友たちが、張り詰めた氷の上を歩き中州の偵察に出かけたが、ウスリー河の中央付近で突如としてソ連軍の機関銃を浴び、四名がそろって即死する。

この場面は小さいころからよく話を聞かされていたのだが、私の記憶の中では川に遊びに行って打たれたと勘違いをしていた。

よく考えたら遊びじゃなくて戦争なんだから、遊びに行くはずがないし、祖父も遺体回収の役だけは御免だったと話していたのを覚えている。

国境という僻地であり、まだ温暖化とは無縁の時代である。

外で立ち小便をすると、地面から尿がすぐさま凍り付いてアーチを描いたという・・・

現代ではそうでないことを祈るばかりだが、最低気温-40℃にも迫ろうかという極寒であるから、覚悟しておいた方が良さそうだ。

祖父がもらった勲章の一つ、支那事変従軍記章

遺体収容の決死隊、遺骨を持って虎林を発つ。

~動乱の歴史『我が人生』歴史研究会より引用~

すぐに遺体収容のための決死隊が募られ、数少ない同郷出身の戦友の無残な戦士に、決死隊に志願するも相対峙するのみで、全くの交流もないソ連軍がいかなる態度に出るかは予想もできず、志願者も少なく、1人の遺体に四名の決死隊がやっと編成された。万一に備え決死隊は一人づつ出動、氷上の遺体にロープを結び収容に成功するも、冴えわたる月の下で見る戦友たちの変わり果てた姿に涙する。

身を切る極寒の中で、投弾筒手として、演習・訓練に明け暮れ、食事の暇もない夜間演習・特に冬季訓練の厳しさは忘れがたい。銃剣術も猛特訓の末、中隊二番の腕前になっていた。二年兵の時ノモンハン事件が勃発、直後に出撃準備を整えて待つも、まもなく停戦協定が結ばれ出撃は中止となる。

三年兵で未だ上等兵の時であったが、築上郡の戦友が戦死したため、中隊長より指名され「遺骨を持ち、内地帰還せよ」の命令。数年もの間、満州で過ごす幾多古参兵の多い中で特に指名していただいた中隊長に感謝し、月給が十円二十銭のころに、旅費としては百三十円をいただき、戦友の遺骨を胸に虎林を発つ。

牡丹江、ハルピンで一泊。ノモンハンの遺体。

途中、牡丹江ハルピンと各地で一泊したが、ノモンハンで戦死した遺体が乗せられ奉天を経由し大連に着く頃には、列車は遺体で埋め尽くされていた。大連より、吉林丸という豪華客船に乗り門司港に上陸。担当官に遺骨を渡し、久しぶりの故郷の土を踏む。

突然の帰郷に歓喜する母上や弟妹達と積る話に夜の更けるのを忘れる。三日後、名残惜しむ家族を後に満州の原隊へと復帰。間もなく打ち続く国境の紛争に備え、国境守備隊に機関銃中隊と歩兵砲小隊が新設され、歩兵部隊に七名の余剰人員ができた。七名中の一人として15年8月15日、内地帰還し除隊となる。(満州に駐留中の部隊は、太平洋戦争が勃発するや南方へと転戦、その将兵のほとんどが玉砕している)

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祖父の幸運、吉林丸で満州から帰国。

月給が十円二十銭のころに、旅費としては百三十円をいただき、戦友の遺骨を胸に虎林を発つ

↑のことがなければ、祖父は日本に帰れずに太平洋戦争を迎え、南方に送られて皆と同じように玉砕している可能性が高い。

そう考えると、祖父と同郷の人が戦死してお骨を持って帰るという幸運がなければ、今の私はないだろう。

満州から門司港までのった豪華船が、吉林丸という名前なのも、なにか縁を感じる今日である。

しかし、月給が10.2円とは・・・・いったいどういう時代なのだ。

100年もせずとも物価というのは巨大になっていくんですね。祖父が実際に取材で語ったことだけに、その時の流れを感じられるというのは、貴重なことである。

帰国後の生活、鹿児島で教育係。

戦争記の続きを引用しようと思ってたんですが、面倒で楽しくないので辞めます。

まぁ前回までで外地は終わりで、祖父はそれから内地である鹿児島で教育係として働いたり、伍長に出世したり、太平洋戦争開始とその後の苦労が描かれるだけで、自分でも読んでて楽しくないです。

っていうか全部読んでません・・・

祖父のこと

話を戻して、祖父のことですが・・・・、私の年代の祖父としては、けっこう年だったので、太平洋戦争時にはわりと出世していたお陰で、激戦地には送られなかったのだと思います。

満州にいたのも太平洋戦争の前なので、ロシアとの国境守備と言っても、本格的な戦闘があったわけではないのでしょう。

私は子供心にロシアと戦ったという印象を持っていたのですが、祖父は本格的な戦闘はほとんど経験しないままに、戦争が終わった運のいい人だったのだと思います。

祖父は私を見て、なにを思うのだろうか

当時は日本の領土だった満州に、教師として孫が赴任するというのは、どういう心境なのだろうか。

全く想像できないけど、祖父が乗った満州からハルビンまでの鉄道に身内がのるとしたら、それは満州国であると思っていたでしょうね。

まさか日本が戦争に負けて、敵国の中国の領土に戻って、その敵国に日本語を教えに行くなんて、若き祖父にタイムマシーンに乗って説明しに行っても、信じてもらえないでしょう。

自分に孫なんてできないだろうけど、例えると自分の孫が将来、北朝鮮で日本語教師になっているような感じかな~

・・・・・とうていそんなことは信じられません。

時代は変わるものですね・・・・・。

2020年8月、旧満州を巡る旅は、私の中国東北地方在住での集大成となった。 大連駅から四平、満州を巡る旅01(2019年8月)...

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