国矢眼 介 自伝
『テレビ塔の下』
とりたてて書くようなドラマティックなことは、私の人生にはなにもないのかもしれない。
こうやって自伝を書こうとして、改めて人生を俯瞰しても、思い出されるのはただ、故郷の豊かな自然や今後の生活不安だけである。
いつも過去のことを悔いている自分が、将来のことと、ましてや故郷の自然を思うとは、なかなかどうして不思議なものである。
年をとったということなのかもしれない。
しかし、また夜布団に入れば夢の中で過去の悪夢や後悔が蘇る。
自伝を執筆するという空間の中で、一つの高尚な思念が、あるいはもたらされるのものなのだろうか。
本当に書きたかったのは職歴の部分であり、いきなりそこから書き始めてもいいのかもしれないが、簡単に、或いは長くなるかもしれないが、自分の生い立ちを記しておきたい。
故郷
福岡県東部に、行橋市という市がある。
そこからずっと旧国鉄田川線に沿って下っていくと、小さな町が点在している。
炭鉱で有名な田川へ至る前で電車を降りれば、私の故郷がある。
私が生まれてまだ小学校に入る前、国鉄からJRに移管される際、赤字路線のためにJRは田川線から撤退する。
代わって、第三セクターが引き継ぎ、平成筑豊鉄道となった。
私がちょうど幼稚園の年長の時で、イベントなどが行われたために記憶している。
当時の街は今とは違い、活気があった。
ちょうど物心がつくかつかない時、日本はちょうど絶頂期を迎えていたのだろう。
保育園で帰りを待つ間、入れ替わり放送されるアニメ放送が、時代の好調さを映していた。
まだ道理の分からない子供でも、日本の空気が明るく、不思議と輝いてみえたのを覚えている。
その空気が、だんだんくすんでいき、灰色のように変わっていったのはいつ頃からだろうか。
とうとう私たちの世代は、いくらかの経済浮沈を経験しながらも、学校を出た2006年辺りからは、ずっとゼロ成長のあおりを受ける世代となったのだ。
小学生の当時などは、駅が新築されるなど、街もなかなか賑わっていた。
時代は1990年代、Jリーグが華々しく開幕したり、ボディコンなどという流行語がテレビから聞こえてきていた。
バブルは崩壊したのだろうが、子供の私には関係なく、街並みも変わらないように思えた。
私は毎日のように自転車で街に出ていき、街で一番大きなマルジュウというスーパーに行った。
当時町の子供は多く、どこかに行けば、約束しないでも友人の誰かに遭えた。
家族は6人、公務員の父、母は小さな印刷工場にバイトで出ていた。
それから父の両親である祖父と祖母、兄と私である。
子供の時分には、兄弟があって、両親がいて、祖父母が計4人いるというのは、私にとって当然だった。
いわゆる平凡な家庭だが、自分が人並に恵まれていたと知ったのは、いろいろな職を経験した20代後半になってからだったと思う。
祖母は祖父よりずいぶん若かったが、身体が弱く小学校の頃に70代半ばで亡くなった。
祖父はそれから10年ほど生き、亡くなったのは私が高校2年の時だった。
今思えばこの二人の存在が、自分の形成には大きな要因であったように思う。
つづく
※たぶんしばらくこの記事に継続して書いていきます。