無職のブログはどこへ行くのか
頭になにも浮かんでこない
ブログに現在の自分の心境、弱さ、憎悪、夢、願望など、
今の自分が考えていることを、ある程度書きつくした感じがする。
今後、このブログはどこに向かっていけばいいのだろうか。
思考がないので、悩みもあまりない
ネタがないということは、
おもしろいアイデアをひねり出す思考が枯渇するだけではないようだ。
夢や希望、願望、悩みや苦しみまでもが枯渇していっている気がする、
まるで瞑想修行をしているようだ。
いや、瞑想修行はけっこうやって、
京都でヴィパッサナー瞑想修行会に参加したりしたが、
それよりも効くような気がする。
頭が空っぽというか、なにも考えられない。
ただ、生きている、そんな感覚が日に日に増している感じだ。
思考=悩み
だということは間違いなさそうだ、
しかし、これが修行をしてまで手に入れたいことだろうか。
分からなくなってしまった、
図らずも全く瞑想とは違う手段で、
無我を垣間見るという経験をしているようだ。
一人ぼっちでただ存在している幸せ
考えもなく
喜びも、楽しみもあまりなく
美味しいものもなく
病や、悩みもなく
ただ生きている
”生きている”ということことが重要なのだろうと思う、
人間がいかほど大切なのかということについては
まだ見えていない、はっきりとは。
しかし、自分が悟りの淵に近づいた時、
たしかに、人間は宇宙で一番尊い存在であった。
それは、自分を優先した尊さではない、
自分や、親や子、孫の尊さではない。
例え、自分の大切なものが、何者かに害されたとしても、
その者もまた、同じように尊いということである。
悟りの淵に立った時、どんな人間の命も、人というだけで、
他の命よりも重要で、かけがえのないものであった。
宇宙や生命の仕組みもまた、そのことが分かれば、
明らかになる日が来るかもしれない。
どうして人間の命が重要と感じたのか、
それは、普段の自分の思想とは、
全く違っていたのであるから。
願望と、生活、弱さの隙間をついて
なんとか、この一人の生活を守らないといけないという希望、
願望、欲望。
生き続けたいという、希望、願望、
しかし労働できない弱さ、動けない弱さ、
すべてをふるいにかけながら、
たまにできる隙間に、
自分の感性を入れ込むことで記事にはできないだろうか。
例え、何の出来事なくとも、自分の感性もってすれば、
命の輝きを、自分の一瞬の光を
言葉の中に閉じ込めることはできないだろうか。
寝て、起きて、テレビを観て、
誰とも会わず、なにも語らず、
ただそう毎日を過ごすという日々、
せざるおえない貧困。
しかし、その現実を感性のチカラで記事へと昇華させる。
自分の体調、
風の音、鳥の声、悲しみ、
だけですら記事にする。
どんなに苦しんでいても、最後に私の文章からは
生きる輝きがにじんで欲しいと思う、
生命の賛歌にあふれてほしい。
それは、この現実にあっても、
いつも私の心にあることだから。