私の人生はインドに旅行に行った時に決まっていたのかもしれない。
このほど、また仏陀の言葉系の本をブックオフで買ってしまう。
古い本なのかブックオフで200円という破格のコーナーに置かれていたので、月曜定休日で散髪に行けなかった自分は、この本を手に取ることになった。
ブッダの言葉は社会性をなくす
ブッダの言葉系の本を買う時、私には決まって仕事が上手くいかなくなったり、退職したりという事態に見舞われてしまった。
まぁそもそも常に死や、善悪などないという思考を労働中もずっともっている自分なので、無理して仕事にやりがいを見出そうとしても、すぐに疑問を感じ始めてしまうし、まともな人よりすぐに疲れてしまう。
そうして仏教などに救いを求める時、結果的にはなにも救われないことが多い。
祈りでは何も変わらない
- 神仏にすがる
- 先祖を大切にする
- 祈りや感謝をささげる
などをしたところで、科学的にはなにも救われることはない。仏教は難解である。
お釈迦様はそのことを、
「彼岸に達する者はまれでって、皆が私のいうことを難しいといって悟りに達する者はいない」
と言われた。しかしそうなることが分かっていながら、仏陀は悟りの境地を布教することを決意されている。
大乗仏教はクソ
時代は流れ、いつしか禁止された偶像崇拝やブッダ崇拝などの、真理とは異なった教えが広まっていく。そして大乗仏教という、誰でも祈ればすくわれるなどという全くでたらめな信仰となってしまった。
お釈迦様は死ぬ間際
「ブッダを拠り所とするな、他人を拠り所にするな、真理だけを頼りにただ一人修行を積みなさい」
と言われた。
苦しみを亡くす
苦しみをなくす方法は、科学的に言えば瞑想により自律神経(無意識の身体反応)をほぼコントロールすること意外にはないと思っている。
自律神経(自立反応)をなくせば、人間におきる反射的な痛みをカットすることができるため、生物的には問題があるものの(痛みが起きないので危機が分からない)、普通では耐えられない空腹に耐える即身成仏や、抗議の焼身自殺などが可能となる。普通の人は、さも苦しいだろう熱いだろうと思うかもしれないが、瞑想によって
- 針をついても出血しない
- 痛みを感じない
- 呼吸の効率化を図って、何倍にも無酸素に耐える(睡眠も)
などの達人クラスになれば、それは痛みという点では全くないと予想できる。もっとも代償として快もなくなるが・・・
これらはすべて自律神経(感覚)をコントロールすることで手に入れることができる、普通の人では自分の臓器すらほとんどコントロールできないが、達人は脳や心臓などの感覚までありありと感じ、ある程度コントロールできるようになってくるらしい。
そんなことをどうやって手に入れるのかというと、無意識と意識が同居する(唯一無意識と意識が使い分けられる)呼吸に当たれということになるのだが、このような思想を確立した古代インドは恐るべき場所である。瞑想というとなにか非科学的と思われているかもしれないが、呼吸の観察こそが瞑想と思ってまずは問題がないだろう。
死ぬ時に静かでいたい
私は死ぬ時にただ静かにその時を迎えたい、生きるためにこれだけ生物の命を絶ってきておいてこれ以上生に固執したくはないのだ、ただ自分勝手にそう思っている。
私によって絶たれた命の数、その重さがどれだけであろうか。また修行もせずに死を迎える恐怖と痛みがどれだけであろうか。医学には頼らなくても、自分自身の中でモルヒネを生成できるようになりたいと思っている、それは瞑想(ヨーガ)でしかできない。
そして、私の目標を達するには出家しかないのではないか、現実と理想を様々なはかりにかけて、社会的な死、現実の死を考える日々である。
関連記事