未だうぃ~を知らずして、 焉んぞ非うぃ~を知らん。されど、我がうぃ~に頼る、自身の心の弱気を常に知る。 -国矢眼 介-
(意訳)
すでに30年以上を生きてきたが、いまだに底辺の生き方を理解しようともせず、底辺に生れついたものを馬鹿にしはすれど、底辺の懐まで降りていくこともしないでいる。
そのような心持で、どうしてか大資本や幸せなどの果実を受け取っていくことができようか、いやできるはずはない。底辺うぃ~に向き合う時、貧しい国のものに接する時、それが自分だと思って馬鹿にしようとする自分を厳しく律しながら、自我を大きしつつも、自分の心と闘っていきたいものである。そうしてまた、自分が真に底辺であり、常に人を馬鹿にせずに受け身の人間でありたいものであり、そうあろうとするものである。
しかしその中でも、うぃ~という数字では見えない、混沌としたものにすがろうとする、心の弱い自分すらも常に分かっていたいものであり、その姿勢は人生を通して貫きながら、できるだけ中道の心を生きていきたいものである。
-国矢眼 介-
アジアうぃ~の人間を馬鹿にしない
教祖はこれからチャイナうぃ~に布教の旅に発つことになったが、チャイナに住むことで、いろんな国やうぃ~の人々に会う機会が増えていくだろう。その時に私は大学で教えているということに慢心せずに、常に日本に居場所がなかった人間としてふるまいたいものだ。
👆の記事で触れた動画に出てきた人は、
「日本に捨てられたとはいいたくない、やはり故郷なので・・・捨ててきたぞって言いたい」
と言っていたけど、私は素直に自分のうぃ~的資質を見つめ、
「日本に捨てられた」
といいたいし、考えたいと思う。日本では最低賃金に満たない給料をもらって、わけのわからない場所で働いていくのだ。それのどこが
「日本を捨ててきた」ことになるだろうか。これから外国で、受け入れられないような最底辺うぃ~を目にすることもあろうし、自ら非うぃ~だと感じることもあろう。
しかし教祖はそれにも怯まず共感を感じ、ダメな自分がすがろうとするうぃ~すらもまた律し、非資本や競争に耐えられない自分をも厳しく見つめていく者であり、それこそがうぃ~教の神髄であると思っている。
信者においては、弱い教祖などに頼らずに、さらなる自己努力と精進を求めて、今の言葉としたい。
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