無職に感謝しようと思う
無職でも生きているということは、無条件に宇宙に生かされているということではないか、私がなんの生産性のないことをしてもとりあえず私は生かされている。
無職であること、無職になる運命であったこと、自らにマイナスのことにも感謝する姿勢というのは瞑想にもつながってくる。
今日はお釈迦様のお話を紹介します。
お釈迦様の話
荒地への布教
ある時お釈迦様は、まだ仏教未開拓の荒地に一人の僧を送ることになりました。それにともなって修行を終えた一人の僧と面談をしていくつかの質問をしたそうです、記憶があいまいな部分もありますが覚えている範囲で書きます。
悪口に感謝
お釈迦様
「今度お前の行く土地は、たいへん悪人が多いそうだ。お前のことを悪く言ってくるかもしれない、その時はどうするね」
僧
「はい、お釈迦様。私はその者たちに心から感謝して寄り添うでしょう、なぜなら彼らは私に石を投げつけたりはしなかったのだから」
投石に感謝
お釈迦様
「では、石を投げつけられたら、お前はどうするね」
僧
「はい、お釈迦様。私はその者たちに心から感謝して寄り添うでしょう、なぜなら彼らは私を棒で叩いたりはしなかったのですから」
棒だたきに感謝
お釈迦様
「では、棒で叩かれたら、お前はどうするね」
僧
「はい、お釈迦様。私はその者たちに心から感謝して寄り添うでしょう、なぜなら彼らは私を殺してしまったりはしなかったのですから」
殺人に感謝
お釈迦様
「では、すぐに殺されてしまったらどうするね」
僧
「はい、お釈迦様。
世の中には自ら命をたってしまう人が多いといいます、私は若者ながらもこの年まで自殺をせずに生きることができました。私は自らの運命と、自分を殺めてくれたその者たちに心から感謝したします」
お釈迦様
「もうお前に教えることは何もない、今すぐに旅発ちなさい。」
恨みをもっている相手に、恨みをもって立ち向かってはいけない
私の解釈
布教の話は、仏教心の厚い私にとっては涙なしには読めないものであって、人生を考える上でも大きな影響をうけている。
この話で、大事なことは人々が一般的にいって自分勝手で悪人だというような存在が必ずいるということではないだろうか、しかし仏教ではその者たちを非難して自らを正当化したり、価値観を押し付けたりはしない。
殺人は特別なことではない
現代の日本では皆が自分の利益を追求することが正義であって、お金を稼いでホームレスにそれを配るといったような利他的な社会ではない。だから非常識と言われるような人々が、殺人事件をおかしたところで特別異常なことではない、ただ殺したかったから、自らの利益を追求するために殺したのだ。
物事に善悪はない
いつも考えているのが、なんで西郷隆盛とかチンギスハン、ナポレオンは偉人なのに北朝鮮や麻原彰晃は悪人なのか?ということだ。もっとさかのぼればイスラム教の教祖であるムハンマドも宗教家というよりも商人であり、軍事指導者であり、政治家であった。
考えないから戦争が起こる
私は平和を目指せとか、非核化だとかを訴えるつもりにはどうしてもならない、なんで軍隊を組織してより多く殺した人が英雄になるのか、なんで中途半端に失敗するとテロになるのか、そのことを考えない限り解決はしないと思うからだ。
私は仏教的な心から戦争も憎まない、ただ命がけで人を殺すことを拒まずに国に追随した人には、反戦を訴える権利はありませんよといいたい。
平和は残酷である
平和を目指すというのは残酷なことであると思う、どんな時も話し合いだけで解決できるわけがない、利害が対立した時に一方が武器をとることは考えればわかる。
平和を目指すとは、それでも武器をとらずにただ殺されることだ、それを考えないような者に平和を語る資格はないし、そこからようやくスタートできる。
平和は残酷である、そこには血まみれになった自分と、家族の姿があるだろう、そこまで覚悟を決めてから平和を語ってほしい。
善悪を超えて
すべては、それでいい
もし平和の理念よりも、自分の命をとるのなら、それは今までの歴史と同じように戦争を終わらせることはできないだろう、それが人間であって私はそれでいいと思っている。
無職は私の理想とは遠いものであった、同じように平和も遠いものだ、信じられないが毎日、毎時間、人が人を殺し続けている。
でも、私はそれでいいと思って、そのことにすら感謝する一原始仏教徒でありたい。