インド 旅行記1

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なぜ呼ばれたのか その答えを求めて・・・

8.MAY.2010 出国

慣れない搭乗手続きを終え、いよいよその時がくる。

前回苦戦し、カッターなどのいくつかの物品を奪われたセキュリティーチェックも、今日はスムーズに運んだ。人並みの物と、水彩画の道具、余っている全ての精神安定剤を持って、まずはインド最大の都市であるムンバイへと飛ぶ、目指す場所はコルカタである。

大阪の街が見える、再び日本に帰る時が一カ月以上先で、帰ってすぐになにかにとりかかれれば、この旅は成功したといっていいかな、そんなことを基準として考えていた。しばらく日本から逃げられる安堵感と、少しの不安をかかえている。実際に飛び立つ前まではとても不安だった、それが今は開放感の方が強く感じられて、自分のDNAに確かに放浪遺伝子があることを感じた。

高松の街、そして先日登った讃岐富士が見える。丸亀の街も、瀬戸内の線路も、思えばあの上で、空の旅を思ったのだ。日本の地図をぼんやりと描きながら、自分は確かに26年間生きてきたのだ、そんなことを思った。

途中、香港を経由することになっていたらしい、ここまで約3時間、時差も考えてみると10時間もかかるのかと嫌になる。もうあまり日本人はいないようだ。おそらくインド人が3割、中国人が6割といったところか、基本的に席はすいていて、私の隣は空席であるので、私はそれに甘えて荷物を置きっぱなしである。スムーズにパラゴンに着けるか、まずはそこがこの旅の陰陽を占う第一歩であろう。何が起こるかわからない、その時々の環境に適応することである。

香港から若者が私の横の席に乗ってきた。

「ハーイ」

と彼、中国人特有の親しみやすさである、とりあえずまともな人で安心した。彼は英語が堪能で、私の幼稚な英語に合わせて会話をしてくれる。話を聞くと、彼は北京の出身でムンバイには仕事へいくのだという。北京からは間に合わず、香港まで出てきたらしい、ムンバイからの目的地はジャイプルだそうだ。

残りのフライトも4時間を残して、機内が暑くなってきた、それにしても関空を出て10時間以上も機内に閉じ込められたままである。これからもう一度降りてムンバイ、そして朝からコルカタ行きの国内線に乗り換えると思うとぞっとする思いだ。暑さと、不安で眠気は全くないので、私は空港で眠ることになるのだろうか。色々読んだりして時間をつぶそうと思う。次回もし、中国以外の国に行くときは、和英辞書が必須だなと感じていた、コンパクトな英和・和英でもいいが、和英は絶対にいる。この思いは毎日のようにぶりかえすことになる。

とうとう一睡もできないまま、14時間以上いもおよぶフライトを終えようとしている、機内食も3回(日本式、チキンカレー、ベジカレー)を数えた。最初にインド式を選ばなくて良かった、香港とデリーではチキンカレーかベジカレーしか選べなかったからだ。

本当に個人旅行はなにがあるか分からない、旅行会社の人に聞いたのだろうが、香港とデリーを経由するなんて気にしていなかったし、実感がなかった。私は、これから降りるムンバイのページを破って日本においてきてしまっていた。少しでも身軽に、軽量化を図るため、南インドと西インドのページをさいて長旅にたえられるように、側面をビニールで固定した。ずいぶんと軽くなり、なかなか良いと我ながら思っていたが、大失敗である。私は国内線乗り継ぎがが大いに不安になった。

とりあえず、無事インドには着いたようだ、あと半日でパラゴン、果たして予定通りいいくのであろうか。私にとっては、唯一の頼れる道しるべである「地球の歩き方」なしにムンバイの空港に着いた。

つづき

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