全てを捨てて出家するには、まだなにかが足りないように思う。

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出家するのかしないのか、それが問題だ

働くと死にたくなる自分

無職あるあるといっていいと思うんだけど、働くぐらいなら死んだほうがましと思ってしまって、仕事が続かない人も多いのではなかろうか。

ほかでもない私自身がそうで、

食べるために就職をする

すぐに死にたくなる

頑張って続ける

どこかのタイミングで我慢できずに辞める

というのを人生で繰り返してきた。

そうなると働かなくても生きていける方法を常に考えるようになるわけで、就職していても毎日その手段を考えるようになる。

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無職でも生きていける方法

無職でも生きていける方法の一つによくあげられているのが、宗教のコミュニティーに入るというものがあって、そういうサイトやQ&Aでは割とよく出てくることだ。

とくに女性には選択肢が多いようで、国内海外含めて小さな村のようなものを作って、そこに全財産を寄付することで、社会とは関わらずに生きていけるようだ。オウム真理教とかもその類の一つではあると思う。

仏教へのあこがれ

私は、高校生の時にはすでに仏性へのあこがれが少なからずあって、社会に出る前からその素養はあったんだけど、仏教に興味を持った一番の理由が、おそらく人生が苦だとハッキリいう仏教に共感した点が一番あると思う。

高校の倫理の授業などで興味を持って、お釈迦様がただ人生の意味や苦しみに疑問を持ち、それを解決するという自らの欲のみで出家したということに憧れを抱いたし、

求めるものは得られず、苦難ばかりが続き、生きるということは心身の働き全てが苦となる

というような言葉を読んで、全くその通りだと思ってしまったのだ。

日本の仏教に興味はない

そういう意味から言って日本の仏教にはあまり興味はないし、伝統とか風習とか、そんなものはどうでもいい。仏教というのは、もともと生きている自分自身のためであったからだ。

偶像崇拝は禁止で、初期仏教では仏像を作ることも許されず、いかに自分自身で苦の人生を歩いていくのか、自己啓発の究極の形であったのではないだろうか。

弟子に促されて語った、釈迦の最後の言葉が

自灯明 法灯明(じどうめい ほうとうめい)

という言葉であった、これは

ブッダをよりどころとするな、他人をよりどころにするな、ただ自らだけをよりどころにして、真理だけを頼って犀の角のようにただ一人歩めというような意味だ。この言葉に、仏教の心得が要約されているのではないか。

  • いつか別れる不確かな他者
  • 祈っても助けてくれない神様

にすがっても永遠の救いはやってこない、むしろモノや人を所有することで不安は増えていく、したがって瞑想では最終的に、自分の身体すらも捨てて、肉体の制約から自由になることを目的としている。

上座部仏教

自分が目指すべきところは、タイヤやミャンマーを中心に残っている瞑想を中心に据えた上座部仏教だと思っている。このような国では、ミャンマーには瞑想ビザがあるぐらいで、出家したいという人を無料でかこってくれる場所がいくらでもあるのだ、仏教徒は社会的にも尊敬されているが、日本とは違って厳しい戒律がある。

厳しい戒律

まず女性に絶対触れてはいけない(もちろん結婚できない)ので、電車とかでも僧侶がいると女性は気を使う。それからお金を所有することができない。

自分に莫大な遺産とかあったらさ、遊んで暮らしてたと思う。それが宗教ってなんだ、その部分は王子様で実は側室までいたことが分かっている釈迦とはずいぶん違うけど、宗教って貧乏人の受け皿でもあると思うんだ。

悲しいのう 悲しいのう

うつ病とか、働きたくないとか、こんな仏教に興味を持つよな人間というか性質だから、そこから全てつながってると思うんだよな、意味が分からんよ本当に、普通だったらさ、普通に生きていけたと思うんだよね。

意味の分からない自分と 意味の分からない思考と 意味の分からないブログ・・・