将棋と私について
一番昔の記憶
古い記憶
古い記憶を思い出した、私が憶えている限りもっとも古い記憶であると思う。
それはまだ保育園児だったころのバスの中での記憶だ、おそらく3歳~5歳ぐらいの記憶だと思う。
朝一の将棋
保育所には幾つも将棋盤があって(オセロなどもあった気がする)、朝バスで保育所に着くとまず将棋を打った。打つ相手は決まっており、一人の友人と何年も対戦を続けていたと思う。おそらくバスのルートの問題だろうか、決まって私たちは早く保育所に着いていたのだ。
バスの中で戦いは始まっていた
バスの中で戦いは始まっていて、私は今日は角から攻めようかとか、飛車から攻めようかということを一番に考えていた。作戦と言っても単純なもので最初に角道を開けるのか、飛車道をあけるのかといった程度である。
勝負に臨む不安
私が強かったのか弱かったのかという、その辺の記憶は全くない、ただ、毎日うっていたという記憶をこのところの将棋の話題で急に思い出した。そして一番強い記憶が、実際に将棋を打っている場面よりバスの中で勝負に臨もうとする心の面であることも驚きである、それは保育園児には似つかわしくない緊張であった。
藤井聡太四段
同じスタート
藤井聡太四段が将棋を学んだのも、私と同じぐらいの年齢だったはずである。彼は天才であって比較するのもおかしな話だけど、あの幼少の頃から将棋を続けてそれですべてを手に入れている人がいるということが新鮮な驚きである。
天才の条件
環境と才能が合わさると人は天才になるのだろうか。いや、答えは生まれた時かせいぜい2歳ぐらいまでで出ていると思う。生まれたときの能力と1歳ぐらいまでの環境で8割が決まるだろう、あとはその後の環境で変化していくが、持って生まれた能力は変化しないはずだ。
成長するという意見もあるかもしれないが、将棋(考えること)が好きだったという彼の資質と、高いレベルのIQ(記憶力など)、集中力はある程度決まっていただろう。
無職の才能
無職にも才能が必要だと思う。
無職に耐えられないという人もいるはずだが、無職でも平気な顔をしている人もいる。本当に無職が転職であるならばそのままニートになってしまうのだろうか。いずれにしろ、第二の藤井聡太をめざすのではなくて、自分の原点に立ち戻るべきなのではないだろうか。
古い将棋の記憶が、それを思わせてくれた。