ブログを始めてから、”死にたい”という気持ちはなくなったが・・・

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タイトル通りである、ありのままである。

しかし、どこかしら死のにおいが、私にまとわりついているというのは確かではある。今日も私は生き急いでいた、無職である、貧乏であるが故の当然の生き急ぎ、それを死神は見逃さなかった。

私が、トイレのルックに新しいものを詰め替えていた時、変な異臭が漂い始めた。なんだこれはと思っているうちに気分が悪くなる。

それも、そのはずである。私がトイレ洗剤だと思っていたのものは、液体トップだったのだ。液体トップダブル除菌であったのだ。

しかし、私は無職である、ブロガーになりたいなどという可笑しな夢にとりつかれ、喰うも食わずパソコンに向かっているのである。私は早く詰め替え終えないと、作業に支障が出るという思いから、換気もそこそこに作業を続けた。ユニットバスで発生した事件は、私が台所でトイレ容器を洗ったことで、部屋中が化学反応をはじめる。

こたつに入って、パソコンに向かって文字を打ちながら私は思った、これで死ねるかもしれない。封印していた思いがよみがえって来た、これでやっと死ねる、楽になれるのだと。

同情を誘うつもりはない、これが失敗を重ね、失敗を重ねていくだろう人間の末路である。普通に生きたかった、誰よりも普通でいたかった、しかし、それができなかったのだ。生きづらさの中に、平気で死神はとりついて、私の心はズタズタになってしまっているのだ。おそらく、なにをやっても自分はできないだろう。

なにをやっても、人に合わせることはできないのだろう。おそらく一生そうなのだろうか、たぶんそうなのだろう。そして、一人きりで死んでいくのだろう、なんだか暗い人間だねと思われながら死んでいくのだろう。

私は別にナーバスモードに入っているわけではない、ごく普通の国矢眼介の思考であり、これが自分である。これが33年間、何事もなしとげられなかったものの思考なのかは分からない、しかし、これが国矢眼の思考だ。嘘偽りのない思考である。

今までの社会生活でも、接客をしていても、なにをしていても私は生きる意味を探していた、夢中になることは少なかった。生きているということが分からなった、それをひとたび口にしたら、たちまちに変人扱いされそうになった。いつしか私は口を閉ざした、遠く、遠い闇の中、それに蓋をし続けた。しかし、そんなもので、それを忘れられるはずもない。病となって、発作となってより強い形で自分に返ってくるだろう。私のことを病気だと呼ぶだろうか。私が病気だというのなら、私は物心ついたときから病気だった。

たかが虫の生き死にが、私には大きなテーマだった。みなそんなことには無関心に思えた。私は殺した、誰よりも虫を、ヘビを、カエルを殺した。それには自信がある、しかしそのことに何の意味があるだろうか。全ては過ぎ去っていく、もう生き物を殺した私はいない、ただ、生きるために生き物を殺し続ける私がいるという、事実があるだけだ。

そんな私がブログを書きはじめてから、一時死をわすれているような日々を過ごしている。ブロガーになるなぞと、そんなものになれるわけもなく、いったい何を、どうしたら、まともな方向にいけるものかと思う。やけになっているのだ、そう半分は、やけになっている。バカならバカで突き進めばいいものを、それもできないでいるのだ。突き進めば、なにがしかの結果があったやもしれん。

死を忘れていた、今日の詰め替え事件までは、本当に忘れたような気になっていた。なにがそうさせたのだろうか、こうして死について書いても何か絵空事のように響く。

誰も本当のことをいってくれなかった、私は寂しかった。だから、誰にも本当のことが、考えていることが言えなかった。本当の私の一割も出すことができなかった。一割でも出せば変人のような顔をされた。

それが、少しづつ、ブログをすることで、本当の自分と向き合うことができたのかもしれない、誰かが見ているかもしれない。誰かに、本当の自分を見られても、自分は非難されなくて済むんじゃないか、そんな希望があるのかもしれない。

変人と思われてもいい、殴られることもなければ、直接ののしられることもない、精神をやんでいてもいい。私は書いていこうと思う、なんにもならなくても、ただ書いていこう。今はそう思っている。