死にも準備が必要だと思います。
いきなり癌って宣告されて、余命一年ですっていわれてもなにも準備してないと間に合わない。それは、定年になってからやりたいことを探したって難しいのと同じである。
何事も準備に勝るものはない
事故にあってから対応するんじゃない、病気になってから対応するんじゃないんだ。もしそのような考えだったら、きっと良い結末は得られないだろう。
- 事故が起きる前から運転を辞める
- 病気になる前に生活を見直す
など、結果が出る前から対応していくこと、何事も起こってしまってからでは間に合わないケースが多い。
確実な未来
私が事故に巻き込まれるかは分からない、癌になるかどうかも分からない、どんな大病をするのかも全く分からない、しかしただ一つ確かなことがある。私がいつか死ぬということだ。
だから、保険に入るとか、お金を貯めるとか以前に、私はいつか死を迎えるということを日常から準備しておくことを考えていきたいと思っている。
お金では解決できないこと
生老病死はお金ではほとんど解決できない平等なものだ、いくら医療が発達しても自らの健康寿命を買うことはほとんどできない。
確実にくる死という未来に向かって、今私なりの思考を構築していかないといけないと思っている。とりあえず、今までの洞察から死ねば完全に自分は消滅するということは分かってはきたけど、ではどう生きるのかということを生き方にまで昇華させるというか、つなげていく必要があるのだと思うのだ。
あの世はないとする
来世というか、あの世のようなものがあるかもしれないというのは否定できないが、とりあえずあったとしても、いつか来る我の消滅ということは確実(永遠不滅のものはないことから)であろうことから、とりあえず肉体と共に自我も滅すると考えて生き方を決めたい。
無が恐い
ここ数日の死についての考察から、いつか自分が完全に消滅するということがハッキリとしてきた。それはとても恐ろしいものだ、いかに人間が弱いものであるかとうことも、まざまざと感じさせられている。
無と向き合って
それでも自分が無になるということから逃げずにあえて挑んでみようと思っている、なぜ目をそらしたくなるのか、そこにはなにか理由がありそうな気もする(生命にインプットされている?)し、なにか見えてくるような気がしている。
そしてそこから独自に、
死にたいというマイナス
×
死への洞察というマイナス
=
いかに生きるのかというプラス
を生み出さんとする壮大な結果にしたいと思っている。
私という感受組織は今ここに存在し、そしていつか完全に消滅するものである。自分は死ぬというそんな当たり前なことを受け入れるのに34年もかかった。それぐらい自分には関係ないことと遠ざけていたのかもしれない。
まとめ
この記事大丈夫かな?もう自分もダメかもしれませんね。自分でまともなつもりなんですが、だいぶきてる気がする。まぁ、参考程度に?読んでいただければと思います。
書くことがなくても書くとさ、やぱり生老病死とか興味がある方に引っ張られちゃうわけです、もうほんと嫌になりますよ。
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コメント
物を考えるのが下手だから人生失敗しちゃってるわけですよ。
その下手な考えを披露してくれなくても結構です。
>山田さん
考えるのが下手なのは自分でよく分かっています、しかしブログをやることで少しずつですが変化はしてきていると感じます。
なにか気持ちを害されたのならすいませんでした、いつまで続けられるかは分かりませんが、今後ともよろしくお願いします。