瞑想で悩みのすべてが解決する

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テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が本に書いていた印象的な言葉に、
瞑想悩みのすべてが解決する
という言葉があった。
この言葉はどんなに忙しい時でも、週2、3回は思い出すほどで自分の人生の大きな指針になってきた。
信じているとか信じていないとかじゃなくて、この言葉にただ無条件にすがっていたというべきかもしれない。私にとっては自分の弱さを直視する言葉である。

瞑想ですべて解決するのか

はたして瞑想うぃ~なるもので全ての悩みが解決するだろうか?
全てという言葉は万物に対して不適切だろうと思う反面、スマナサーラ長老がなにを言いたかったのかということはだいたい理解できるようになってきたつもりだ。
考えたり、悩んだりしてなにが解決したのか?思考することは多くの場合、ほとんど逆効果である
この様な言葉も残されている。

お釈迦様の思想

その昔、お釈迦様は仏教の根本思想として
諸行無常
諸法無我
という絶対的な思想を打ち出した。

そして死期を悟った時に高弟に語ったとされている言葉がある。それが
仏陀をよりどころとするな、他者をよりどころとするな。ただ真理のみをよりどころとし、犀の角のようにただ一人歩め
という言葉である。

私は一人はごめんだ

断わっておくが、私は絶対に一人は嫌である。一人で生きていきたくない。しかし残念ながら私は、一人で生きてきたし、これからもそうやっていくのだろう。

そして、そのうち両親も順番に亡くなっていくだろう。その時、人の希望が一体どこにあるというのだろう?なにもないのではないか?(ここでは独身者をあえて一人で生きていく存在と仮定した)

テロに走る30代&40代の無職(まれに尊敬されない非正規)

人は誰からも依存されないと精神は崩壊するのではないか?精神的、経済的、肉体的、社会的、なんでもいいのだ。あるどこかで強く人から必要とされていなければ、心は腐敗していく、誰からも認められないのは辛い。

  • 秋葉原殺傷事件
  • 京アニ放火殺傷事件
  • 相模原福祉施設殺傷事件

などそのほとんどが独身の30~40代の無職男性ではないだろうか・・・・私は日本という社会が、このような分子をなんとかケアできないものか?彼らに人から認められる経験をしてほしいと考えているし、彼らの姿は私の未来の姿でもあるのだ。

他社に依存しなくてもいい唯一の選択肢

瞑想は自分の感覚それ以外に依存することがない、命にはかえられないが、他の何がなくなっても、それなりの瞑想はできる。

今回考察するにあたって、私は究極の状態を想像するために、難病で生命維持装置をとられればすぐに死んでしまう状態ということで考察した。

家族という選択肢

以前テレビで見た。

体中の機能が徐々に失われていき、最後には全身全く動かせなくなって、話すこともできない難病の人がテレビにでていた。彼は撮影中の前後に、人工呼吸器をつけて世界と全く関われなくなっても家族の介護で生きていくことを選んだ。

それは頭脳だけが変わらない状況で、たとえ自分をアウトプットする術が世界になくても、残される眼や耳のインプット機能から、家族(特に子供)の成長を感じられるからだという。これは本当に幸せなことだと思った。しかし他社にすがる場合、それを失うという不幸の存在が多くの場合に伴う。

自分の意志さえあれば

瞑想は自分の意志が不完全でも残っていれば、どのような状態になってもできる。

健康がなくても、お金がなくても、他社に依存しなくても、完全にできる領域が他のことよりも圧倒的に広い。多くの物事では、例えば失明しただけで、耳が聞こえないだけで、多くの影響を受けてしまうだろうが、瞑想に与える影響は私の考えではあるが全くないと思う。

まとめ(家族を持つ瞑想者が一番いい?)

少々今回は長くなったが、かなり核心に迫ってきた気がする。瞑想のハード面ではなくソフト面の核心である。

これはしばらくすればまた考えも変わるであろうが、現状孤独な人間がいかに生きるべきなのか?それを考えている自分の中では避けては通れないテーマとなっている。

現状、一番いいのはやはり幸せな家族を持ちながら瞑想者になることだ。それに勝るものはない気がする。でも、瞑想と家族どちらかといわれると、今は難しい選択になってきたなと、それぐらい瞑想に依存してきた日々だ。

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