瞑想は禅問答みたい

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自分の瞑想について書いて、いったいどれだけの人の興味を持つのかは分かりませんが、まぁとりあえずリクエストがあったんだから、それにすがるのも良しとは思います。

しばらく瞑想について自由に書きます

つかみどころがない記事になっていきそうですうぃ~
全くまとまりがないというか、整理がつかないというか、長いこと記事を書いていないから書けないということもありますし、ブログを書くことになれていないということもある。また逆に言えば、今まで全く瞑想のことに触れてこなかった。しかも人生をかけて取り組んでいるといってもいい瞑想に触れてこなかった、人にも話してこなかったので、その意味で何を書けばいいのかしら?と途方にくれてしまっている状態です。
とりあえず今は、パソコンを打ち続ける、書き続けることかなと思っています。それぐらい手が動くので、書くときがまた来たのかなと思うし、シュシーさんからそのテーマも頂いたのだと思っています。

瞑想とは、禅問答のようですうぃ~

いきなりですけど、瞑想ってやればやるほど、それを否定したい自分がいるのですがどうしても否定できないで存在が大きくなってくるもの。それが、瞑想は禅問答的だよな?ってことがあります。
もともと仏教とか瞑想とかにはまる人なら聞いたことがあるかもしれませんが、
例えば、

  • 「道だと思ったそれは道ではない」(老子的ですよね)
  • 「自分を探して旅をしていたけど、目的すら忘れてしまって旅をするのをやめた」(中国古典風)
  • 「あなたが幸せというものは幸せではない。この理解しがたい心理を知れ」(仏陀風)

このように恐れ多くも古典のスーパー思想を並べ立ててみたわけですが、まさにこのようなことを、瞑想をやっていると嫌でも毎日考えなければいけない。
それはすなわち悟れていないというわけなのですが、向上心を持って取り組めば取り組むほど、何かを求めてしまう。
また、悟りから遠ざかるという悪循環に陥ってしまうような気がしているのです。
なにも求めずにただ座るというのは、座禅や他の瞑想法では比較的容易なのかもしれませんが、ヴィパッサナー瞑想でそれをやるのは相当な上級者かなという気がします。絶えず観察しなければいけないので、どうしても雑念の余地は多いです。

何年も瞑想をやっていますから、もちろん深い集中状態に入れることもありますし、一度座れば20分以上は全く動きません。また、それが長いとももはや思わななくなりました。すぐに過ぎ去ります。
やはりブログを書くとかなり考えが整理されていくように思います。
次は自分の瞑想中にかかせない、焦りについて書こうと思います。

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