瞑想するのは辛い、日々是修行である
テーラワーダ仏教協会で有名な幼くしてスリランカで出家されたスマナサーラ長老、彼の瞑想の本と出会ったことで、私の瞑想人生が始まることになった。
この本にも書かれているのが、瞑想することの何がきついのですか?疲れたら休めばいい、腹が減ったら食べればいい、そしてまた瞑想すればいいのです( ´艸`)みたいなことが書かれている。
この本にも書かれているのが、瞑想することの何がきついのですか?疲れたら休めばいい、腹が減ったら食べればいい、そしてまた瞑想すればいいのです( ´艸`)みたいなことが書かれている。
瞑想はとてつもなく疲れる
もし、そのように簡単に瞑想が続けられるなら、人は誰でも悟れてしまう。というかそもそもどうして多くの人間がこれだけ怠惰に流されて、有用なことよりむしろ無駄なことや害になることを熱心にやっているのか?それは生物が怠惰な存在だからだろう。誰だって、キツいことはしたくない。
誰もが食べていかなければならない
人は金を稼いで生きていかなければならない。もう毎日みながへとへとだろう。そんな時に、誰が毎日瞑想に30分ほどの辛い時間をすごそうというのだろうか?別にストレスは溜まっても、発散はできないようにも感じる。毎日一年以上、来る日も来る日も座っていると、その尋常ならざる困難さ、難しさ、辛さが身に染みてくる。
役に立たない
役に立たないのである。なにも役に立たない、非生産的な出来事である。少なくともビギナーの時はそんな風な感じこの上ない。なにか一円にもならないことでわざわざ苦しんでいるように見える。そして、孤独である。誰も褒めてくれないし、自慢がもできない。そもそもやっていることすら誰にも気づかれないし、気づいたろことで変な人に見られるだけだ。
瞑想は孤独である
あるのはただ圧倒的な孤独である。孤独を育て、ひたすら自分を見つめる。集中力は研ぎ澄まされはするだろう。でも、瞑想を果たして孤独でない人間がやるだろうか?
瞑想とは
- どうしょーもない不幸に打ちひしがれた人間
- 生まれながらに宗教性のかけらを持っている人間
- なんとなく人生が上手くいかずずるずるきてしまった人間
のどれかではないかな?バラ色の人生に見える人が、果たして瞑想をすることを選ぶだろうか?
私にはそんな人はごく一部で、ほとんどの人はなにか小さくない、問題を抱えている気もするのだ。
私にはそんな人はごく一部で、ほとんどの人はなにか小さくない、問題を抱えている気もするのだ。
入り口はそれぞれ
だがしかし、瞑想はそれらの孤独な人間をいやす可能性は持っているのではないか?そうも思っている。はたからみて時間を無駄にしているだけのような瞑想、でもだからこそ、他では味わえない貴重な経験を瞑想者にもたらすのではないだろうか。