瞑想者と死生観

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瞑想、それ即ち生を感ずることである

瞑想、その胡散くさいもの。胡散くさい臭いですよ~うぃ~なるもの。しかし、瞑想の本質はとにかく良いと悪いをなくしていくこと。感情を入れずに物事をただ現象と観ること、簡単に言ってしまえばそれだけのことうぃ~である。実にこれうぃ~であってまた同時に、非うぃ~の世界にも見える。しかし、非うぃ~もまた対であるうぃ~と混在している。しかしそれは本当にそうか?それが瞑想の死生観を問う時、私には分からなくなる時もある。この私が日々取り組んでいる無駄なことむぃ~な瞑想という行の一連の情景を、なんとか垣間見せていきたいと思う。

大脳からの解放

瞑想中に感じる事、重要な本質の一つが自身の肉体を脳から切り離すということであると思う。
一般的に人間の生活は脳、特に大脳から切り離すことがなかなかできない。大脳新皮質で様々な情報処理を行い、言語を理解し、光を素早く情報処理し映像に替え、空気振動をこれまた素早く音に変換し、休むことなく働いている。現代人はその傾向がどんどん増大しているといえるが、それはなにも現代人に限ったことではなくて、肉体労働しかしなかったであろう古代人でも、脳で情報処理を行っていた以上は、その呪縛からのがれることができないできないうぃ~なのである。

大脳から解放された精神

瞑想中に大脳から解放され、思考の無くなったただの存在はどこにいくだろうか?思考をシャットアウトしたただの私はどこに思考を求めようとするだろうか?この時、私の精神は自由に肉体を飛び回るが、ここで人は初めて偉大な臓器の存在から目をそらすことができなくなる。それが心臓うぃ~である。

心臓うぃ~の偉大さ

ことにこの、心臓うぃ~様の偉大さに気づくことが瞑想初心者では遠からず訪れる。脳から解放された感覚、そして思考の種は心臓というその強大な存在に恐れおののき、初めて思考と妄想は心臓への感謝を日々思い始める。ただ単純に減少を観るという瞑想に対して、それは強敵が現れたことを意味する。

人の手の中にある死

生と死が対等な関係にあるのかどうか?日々心臓を見つめるとわからなくなるのだ。
瞑想をしていて、特に不安になってくるのが生命の、命の不安定さである。一生懸命に何を頑張ろうとも、この全身で鼓動を感じるようになった瞑想者が思うのは、この心臓が止まった時に命が終わるということである。それが良いことだとか悪いことだという意見ではない。

コントロール可能な死と、不可能な生

人間は自分でも、そして第三者でも、いつでもその生を自分で終わらせることができるという現実がある。生はコントロールできないのに対し、死はある程度コントロールができるといっても差し支えなさそうだ。この辺りに生命の本質的な危うさ苦が潜んでいるし、これを完全に否定することはできない気がしている。

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