瞑想者とブログ
ブログで瞑想を扱うようになった。
「ブログというものは最終的に日常生活の全てをネタにするようになって、完成する」
というような言葉を、どこぞの有名ブロガーのBlogで最近見たような気がする。
もちろんこの言葉は、月間30万PV以上とかのブロガーが見える景色だとは思う。
でも、瞑想をライフワークとしようとして、そのために毎日瞑想を続けている自分が、瞑想情
報をアウトプットしていくというのはある意味で自然であり、今まで考えなかったことの方が
不自然ではあるな、そんな風にも思う。
意外と相性が良かった瞑想とブログ
瞑想とブログ、この世界の両極を表すような言葉である。
お互い外来語ではあるのだろうが、東洋と西洋、カタカナと漢字、内と外、インプットとアウ
トプット、有益と無益。
これほど離れた二つのワードを出会うとは、これはやっぱりなにかあるなという感じがする。
無意識に今自分はブログ瞑想生活に入ったわけだが、ある意味ではこれまでのブログ下積み時代も今日のためか?
などと思わなくもない。
インプットとアウトプット
瞑想ほど個人的な行動も少ないかもしれない。
ほとんど他人と関わることはゼロで、ただひたすら内面を見つめ、経験をインプットしていく。
それだけにアウトプットの場がない、ゼロである。
これだけでも意外ではあるが、ブログと瞑想は相性がいいのではないか?そんな気がする。
瞑想ブログはネタが尽きない
アウトプットの機会が極端に少ないにも関わらず、毎日必ずインプットする。
すると嫌でも思想・経験・苦悩・欲求などの全てのアウトプットした欲求がどんどん溜まっていく。
しかし、現実世界で人にあったとしても変人扱いされて、熱心に聞いてくるような人はまず現れない。だから、瞑想者はひたすら内面にその経験を蓄えて、それを貯蔵することになるだろう。
そうすると、ブログという媒体を使ってそれをアウトプットすることは、一石二鳥どころかこれ以上ない相性にも見えてくる。
瞑想情報を求める人はいるのか?
しかし、そもそも瞑想情報を求める人はいるのだろうか?
初心者瞑想者である私であるが、他人の瞑想者がなにを考えているかなどということは別に気にならない。
瞑想は極めて個人的なもので、瞑想者になったということは、その人が独立一派の宗教の教祖になったようなものだからで、もはや遠からず指導者の方法を真似ているつもりが、全く新しい各々の瞑想を目指していくことになると思うのだ。
瞑想ビギナーへの需要
これから瞑想を始めようとしている初心者の人や、なんとなく興味をもってググっている人には需要があるのかもしれない。
瞑想を継続する人は極めてまれな存在であって、そもそも瞑想情報を発信できる人も少ないと思われ、需要はそこそこあるのかもしれない。
現実に、つい先日書いた記事が「瞑想 やり方」のワードで検索から人が見に来ている。
瞑想を継続することの希少性
瞑想情報をアウトプットできるほど座った人がまず非常に少ないだろうと思われる。
毎日の習慣にしていれば少なくともアウトプットは可能だが、一年二年と継続すると変人の領域に入る。
でもこれは単純にブログを続ける、筋トレを続けるとかでも同じかもしれない。
瞑想者への単純な興味
私が瞑想者だというと、
「瞑想の良さは体験しました。しかし、あなたはなぜ継続しているのですか?」
と真顔で聞かれたことがある。
なんのことはない・・・・答えは出ていて、苦しんでいるからである。
しかしたいていの場合は真実をかくして、別の理由を言うことが多い。
瞑想ブログの可能性
瞑想者は「生きることが苦しい」から瞑想を始める。
それはたぶんおおよそ間違いない。
しかし、きっかけは絶望的であっても、それを継続しているのはまた別の要因である場合が多いと思っている。
それはいったい何なのか?
この辺り瞑想者自身もアウトプットが足りていないせいでなかなか見えてこないことが多いと思う。
そんなようなことを考える機会としても、やはり瞑想とブログの相性は良さそうである。