中国で孤独に耐える日本語教師
ズバリである、中国の日本語教師は孤独に耐えるのが仕事だ。
寂しい、寂しい、といいながらウンウンうなりながら日々をやり過ごす。それでいいのです。うぃ~
それは学生も皆が分かっていることで、
「私は一人が平気なタイプなので、別に気になりません」
とか、学生にうそぶく必要などないのである。
私が最初に赴任した吉林省の四平の大学では、前任の外教は50代後半ぐらいのおっさん教師だったらしく、私は面識がないが学生はおじいさん、とか言っていた。
「きっと、先生は寂しかったと思います」
お世話をしてくれていた女性の学生が何気なしに、そんなことを語り始めたことがある。
それが高齢によるものなのか、外国人というだけのことなのか、あるいは日本語教師自体がそういう日本に適応できないうぃ~であることをその学生が分かっている言葉なのか、その辺りはなんとなく今も考えたくはない。
大学で孤独に耐える
中国の大学での日本語教師は、孤独に耐える入門編と言える。
どこの大学でも、必ず日本人非うぃ~エリートのまだまだ前途ある20代前半の留学生がいる。また、だいたい外国人教師とは違う教授枠で採用されている日本人が、大学にいるケースがほとんどだと思う。
というわけで、望む望まざるとに関わらず、大学では日本人との交流も多い。
「彼らは自分とは違う、違うんだ。うぃ~ではないのだ」
私たち日本語教師はそんなことを自分に言い聞かせながら、どこかで彼らと線引きをすることになる。
また、大学に大学院があって日本語課があれば、そこでかなり高度な日本語を操る中国人学生と友達になることもできる。
うまくいけば大学ではいくぶん孤独を紛らわせた生活もできる。
しかし、それもまた安定的なものではないし、結局は自分の教師への適正、そしてなにより孤独適正がなければ、なかなか3年は続かない。
高校で孤独に耐える
中国での高校の外教は、完全に上級者向きである。
仕事のハードさもある。そして、日本人はほとんどの確率で誰にも会うことがない。
そこでは、おのが日本人というテーマから、正面から向き合うことになる。
相当な孤独耐性と教師適正に自信が無ければ、まず挑戦はしない方がいい。
もちろん高校でもメリットはある。
もし中国の高校で1年以上仕事が続くなら、自分はうぃ~ではないのだ、自分は日本社会でもやれるのだ!なんていう幻想を抱くことができる。
現実は決してそんなことはないのだが、すこしは自尊心が保つことができるのだ。
だが、生活は本当に孤独だ。自分がスカスカになっていく感覚を存分に味わうことができる。
なにかを紛らわせてくれる学生の存在が身近にない(もしいても忙し過ぎて交流する時間がない)ので、大学とは全く違う生活を余儀なくされる。
中国の日本語教師まとめ
最近は国際化も進み、中国人と結婚したり、妻を帯同しての赴任なども珍しくないのかもしれない。
しかし、やはりそれでは外教の醍醐味である孤独を味わうことはできない。
異国で忍び寄る不安、忍び寄る死、そういうものを味わうにはやはり一定期間でも一人になる必要があると思っている。否、自分を正当化するために、幸せな人たちを否定し私はそう思おうとしているのだろう。
そして、今日もまた、孤独と向き合い続けるのだ。
もっと具体的に孤独な生活の良さを書くつもりだったが、変な文章になってしまった。
もっといいたいことは別にあった気がするのですが、また改めてそのことを書けるように挑戦しようと思います。なんの太枠もなくいきなり書いているので、こういうことになるんですよね。うぃ