祖父の満州記1~一歩兵の太平洋戦争の記録~

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若きころの祖父の写真である。

私を知る人なら私と瓜二つの顔に驚きを隠せないはずだ、多分色をつけて私の写真に混ぜていても、本人でも全く気付かないレベルである。高校生の時に80代で亡くなった時は、そんなに似ているという感じもなかったので、これは驚きであった。

今回、元満州に行く可能性が高いということで、実家で同居していた祖父の、太平洋戦争中の記録をまとめた資料を開いてみた。

大日本帝国の一兵士の記録であるが、ブログでアップすることで、誰かのためにはなるのではと思い、祖父の人生を振り返るついでに引用しておく。

一歩兵による太平洋戦争の記録~満州国境守備隊~

~動乱の歴史『我が人生』歴史研究会より引用~

国矢眼 幸義(仮名)

階級:陸軍伍長[歩兵]

表彰:勲八等旭日章・支那事変従軍記章

年齢:大正五年一二月二四日生

経歴

昭和13年1月10日。現役兵として小倉歩兵第十四?隊に入隊。間もなく守備隊要員として1月26日門司港を出港、大連上陸後に列車に乗り込み新京郊外寛城子に到着、満州派遣軍独立守備隊に編入となる。

軍人勅諭を精神基盤とした熾烈極まりなき新兵教育が始まる。各個戦闘、銃剣、白兵、射撃、行軍等の猛訓練が行われる。連日連夜にわたり訓練が行われ、上官の靴磨きや宿舎の掃除、寒いというよりも痛さを感じる極寒の中でする洗濯、早朝より始まる銃剣術の猛稽古と一服の暇もない三カ月が過ぎ去る。

一期の検閲を終え奉天に移動、二カ月後、国境守備隊に編入となり虎林へと派遣され、一カ月交替で国境線の警備につく。ウスリー河を挟んで対岸はソ連領となっており、対岸のイマンにはソ連軍の軍隊が駐留、夏の間はソ連軍の小艦艇が往来するのがよく見えていた。短い夏は瞬く間に過ぎ去り、冬将軍が猛威をふるう頃になるとウスリー河は厚い氷が張りつめ、何処が上流か下流かの見分けもつかない程になる。大平原を緩やかに流れる川の中には幾つもの中州ができていた。一触即発の危機はらむソ連軍との間に点在するこの中州に、同郷の出身で同時に小倉?隊より出た仲の良い四名の戦友たちが、張り詰めた氷の上を歩き中州の偵察に出かけたが、河の中央付近で突如としてソ連軍の機関銃を浴び、四名がそろって即死するという大事件が起きた。

つづき

↑字が分からないものは〇とした、表現が劇画調になっているところがあり、少しの訂正を加えた。

奉天というのは瀋陽らしい

奉天というよく出てくる地名は、旧満州の奉天省奉天市というところで、現在の遼寧省の省都で、東北地方最大の都市である瀋陽にあたるらしい。虎林(フーリン)というのは現在でも黒竜江省にある、ハンカ湖という湖とロシア国境の近くに見つけられる。ウスリー河と言うのは、国境を流れるアムール川の支流の一つであるようだ。

二世代前の祖父が、なんと半世紀以上も前に満州に渡り、赴任する確率の高い四平(スーピン)の近くにいたというのが、時代とはいえ感慨深い。

やはり極寒の中国東北地方

仲の良い四名の戦友たちが、張り詰めた氷の上を歩き中州の偵察に出かけたが、河の中央付近で突如としてソ連軍の機関銃を浴び、四名がそろって即死する

という場面は小さいころからよく話を聞かされていたのだが、私の記憶の中では川に遊びに行って打たれたと勘違いをしていた。よく考えたら遊びじゃなくて戦争なんだから、遊びに行くはずがないし、祖父も遺体回収の役だけは御免だったと話していたのを覚えている。

国境という僻地であり、まだ温暖化とは無縁の時代である。外で立ち小便をすると、地面から尿がすぐさま凍り付いてアーチを描いたという・・・現代ではそうでないことを祈るばかりだが、最低気温-40℃にも迫ろうかという極寒であるから、覚悟しておいた方が良さそうだ。

つづき↓

↑祖父がもらった勲章の一つ、支那事変従軍記章。 ☟の記事の続きです、読んでいない方はこちらからどうぞ。 一歩兵による太平洋戦...
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