中国人学生に初期仏教を説く。仏教と自殺。瞑想。宗教。

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中国人初期仏教(うぃ~教)を説くチャンスがあった。

お釈迦様の話から世界の諸仏教の話まで、いろいろなことを説いた。

私は初期仏教の実践者でもある。

つまり瞑想を実践しているので、そのあたりについて話した。

私はブロガーである前に、美術教師である前に、毎日腹筋百回やヨガ実践者の前に、一人の瞑想者である。

仏教を中国人学生に説く

本来の仏教とは、瞑想(ヨーガ)の実践のことである。

瞑想は苦しくないなどとどこかの馬鹿がのたまったらしい。

しかし、瞑想は苦行である。

はたからみて動かないので、勝手にそう思っているだけだ。

しかし、動かない彼らの内面は苦を苦と捉えない、楽を楽を捉えないようにする脳内回路の変換という壮大な修行が行われている。

まぁ実際に動かないだけで慣れないうちは苦しい。

初期仏教の瞑想は、ヴィパッサナー瞑想といって肉体を観察することにある。

簡単な仏教の知識、瞑想はなにを目指しているのか、とうことなどを説いた。

例えば、タイのお坊さんが座って瞑想している時、ただ座って意識を集中しているのではない。

あれは、なにをしているのか?

ということを学問的に教えた。

中国人学生と仏教と宗教。瞑想者。

現代の中国人に、ほとんど宗教をしている自覚はないだろう。

しかし私の考えでは、おそらく日本人、でもそうだと思うのだが、東洋人である以上無意識に宗教(仏教)を実践している。

伝統的に、風習的に、宗教と関わらないということは難しいからだ。

しかし、本来の仏教とはそれとは少し違う。

本体の仏教とは、なにかを形にしたり、なにかに祈ったりするものではなかった。

断じて、そのようなものではなかった。

本来の仏教、つまり釈迦が生み出した概念とは、外の世界になにかを求めるものではない、それは自分の中にすべてを求めるものだった。

この辺りを学生に説いたが、非常に熱心に聞いてくれた。

「このような話しを初めて聞きました」

と言ってくれて、鋭い質問を挟んでくれた。

合計で4時間以上は初期仏教について話していたかもしれない。

まさに独壇場うぃ~である。

瞑想者は外の世界になにかを求めるわけではない。

金や地位、妻や子供、家などを求めるわけではない。

ブッダの言葉に

「武器屋は弓矢を作る 牛飼いは牛を作る 賢者は自己を整える。」

というようなものがある(正確ではないです)。

しかし、実際に世俗に生きている以上金を求めないわけにはいかないし、仕事もしなければいけない。

だから、実際の生活でどの程度活きるのかは具体的に分からないが、なにか不幸があった時に、その効果は著しい。

例え失明しても、例え不治の病を告げられても、瞑想者の目的は自己を整えることであるからだ。

眼が見えなくても、病気になっても、どうなっても、死なない(脳死にならない)限り瞑想はできる。

究極的ではあるが、例え全身が動かないような難病になっても、自己修練を続けられるのだ。
これはかなり大きい。

そう、瞑想者は外になにかを求めるのではない。

自分の中だけに求める。

大事なものは外にあるわけではない、己の中に既にあるということだ。

生老病死の苦に直面した時に効果を発揮する、それが瞑想だと思っている。

生死の道理を観察し、その練習を毎日していると考えてもいいかもしれない。

死に直面した時、それでも瞑想でなにかを達成しようとする、それが私の目標だ。

釈迦はどうしようない人間だった

どうも学生が宗教は偉いもの、釈迦は偉いものというような勘違いがあるようだったので諭した。

どうも儒学的な、孔子の思想などに引っ張られて、宗教は道徳的なものと思い込んでしまうのかもしれない。

ある男子学生が、しきりに宗教が社会規範や政治のために使われたというのだ。

だが初期仏教は他人のためではなかったし、初期では社会規範的な要素もなかった。

私は、

「孔子は実践的だし、あれは非うぃ~であるから、あなたが儒教を実践する態度が私より正しい」

と答えた。

私はうぃ~であり、初期仏教はうぃ~である。

お釈迦さまというのは、本当にどうしようもない人間だった。

仏教というのは釈迦が苦しみを逃れるために、その欲望を実現するために編み出した概念である。

彼は2人の妻や子供のある王子だったが、すべてを捨てて出家してしまう
(その後釈迦国は隣の大国に攻められ滅亡した)。

そして、悟りを得た後も、自己だけを優先して布教を拒否したと言われている。
(その英知は一目見ただけで分かり、周囲の者に説得された。サールナートで数人の者に初めて教えを説いた、それが初転法輪、仏教の誕生である)

苦を無くしたいという究極のわがままを実現しようと立ち上がった一人のうぃ~が編み出した哲学、それが仏教である。

仏教と死。自殺

一人の中国人女子大学院生から鋭い質問がきた。

「苦を無くせば楽も無くなる。それを目指していると先生は言った。では、なぜ自殺をしないんですか」

と。

感心した。

瞑想をしていてわかる、おそらくブッダもそのことを考えたことだろう。

そして、自殺の効果について一定の評価をしていたと私は予想している。

ブッダが実際に自殺について問われた時、なにも答えなかったと言われている。

それは、仏教の揺らぎでもあるかもしれない。

しかし、仏教はあくまで生きる中で、訓練で脳内回路を超越しよう(苦を苦と思わない、快を快と思わない)という試みである。

そして、それができれば心の平安が得られる。

平安のないまま、自殺しては意味がない。

仏教はやはり生から始まり、生きることを前提にしていると説明できるかもしれない。

だが、行きつくところはほとんど同じような気がするし、自殺は無視できないテーマだ。

釈迦がどういう世界を観ていたのか、私には知る由もないが、死についての理解は瞑想で深まっていく。

死が全く悪いことではないということだけは分かる。

生死は、男女、昼と夜、光と影など、単なる対のものに過ぎないからだ。

夏は良く、冬は良くないだろうか?男は悪くないだろうか?女が悪いだろうか?

そんな単純なものではない。

死は悪いものではない、生があれば死がある。

大事なのは生まれて、いつか死ぬこと。

生まれてすぐ死んでもいい。100年生きて死んでも良い。自殺しても良い。

だが、生まれて死んでいく、それが一番重要であると考えている。

生きることだけが重要ではない。死んでいくことも重要なのだ。

大半の文学や映画などのテーマは間違っていると思う、生きることが大事なら死ぬことも大事だ。

それは1つであり、切り離すことはできない。

大事なのは生まれて、そして死んでいくことである。

そして、それはすぐにでも構わない。赤子で死んで悪いことはない。

それもまた、評価できる。

生まれて死ぬ、それだけで偉大なことなのだ。

科学的に、生命がなぜ存在するか理由が分からない、だから生命を作ることができないそうだ。

私は外の世界ではなく自分の中にその答えを見つけ出した。

生命の目的は、生まれて死ぬことである。

おそらくそれだけで宇宙のなにかの目的が達成されるのだろう。

その計算方法は、いずれ科学でも解明されるのかもしれない。

別に自殺願望はないが、瞑想者としていつも考えているようなテーマを、初見の学生に指摘され、ギクリとした。

そしてなによりこの女子学生の聡明さと着眼が嬉しかった。

私は丁寧に言葉を紡ぎ、そのようなことを説明した。

このように、話す内容は多岐にわたり、仏教だけにはとどまらず、あらゆる思想に及んだ。

中国人学生たちや、声をかけてくれた日本語教師の先生にも感謝したい。

そして、改めて自分が話した間違いにも気づきがあり、自分の仏教的理解を確認、深めることができる会議だった。

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